日本財団 図書館


1-2 旧中林綿布工場の概要

 

(1) 泉州地域と繊維産業

泉州地方は、江戸時代から米作のほかに綿・菜種作、甘蔗作が盛んなところであった。特に綿花の栽培は盛んで、「和泉木綿」の産地として知られている。熊取でも他の綿産地同様に木綿織が早くから行われ、織物業の発展にはめざましいものがあった。明治から大正時代にかけて多くの近代的な織物工場が設立され、綿布・紡績やタオル業が代表的な地場産業として隆盛化した。

明治政府は欧米先進国の産業の導入につとめ、そして国産の奨励、輸出促進など国策としてかかげる。民間産業の自由発達を促進したいわゆる「殖産興業」を奨励し発展をはかった。これによって繊維工業界はしだいに景気が回復し、大阪府下でも多くの会社や工場が設立され隆盛を極め、明治23年の恐慌にも大きな打撃をこうむることなく発展した。特に電力等の様々な産業基礎が確立し、特に明治末年から大正初期にかけて、力織機の開発・改良、工場の動力化の発達はめざましく、泉南地方の機業界にとっても一大産業改革の時代といえる。

繊維工業界は大正時代に入って、第一次大戦を契機に飛躍的に生産を増加させた後、大正9年よりの世界的大恐慌によって大打撃を受け、生産が停滞し産業界にかげりがみえた。さらに昭和2年の金融恐慌、同4年の経済大恐慌、昭和5年から7年にかけての農村不況、そして昭和12年の日中戦争、同16年の大平洋戦争がはじまり、繊維産業界は工場の縮少。閉鎖を余儀なくされた。しかし他の生産地と対照的に泉州地方では相当の生産上昇をとげている。その理由としては機業家の経営規模が大きく、これを支える織機の台数、それを設置できる大規模工場が多かったことによるというが、その半面、有能な経営者が多かったことも無視できず、経営改善や設備投資など合理化を徹底したことも考えられる。

 

(2) 熊取町の機業界

明治40年代になると、明治政府の国内産業の振興にともなって、古くから農業のかたわら副業として綿紡あるいは木綿織物が盛んであった熊取村でも、家内工場から近代化した綿織物工場へと発展し、多くの近代的工場が設立された。そしてこれらの工場では国内向けと輸出用の綿布生産やタオル製造が行われ、熊取の近代地場産業として確立した。

明治40年代以前の熊取の工場についてみると、明治10年前後には佐々木米太郎工場、同15年以後には相輪工場、中村工場、根来工場、甲田工場、同20年代には原工場、中川工場、松藤工場、阪上織物工場、同30年代には中西・原寅吉・北川・中林・永井氏らの各工場があった。これら工場の多くは、農家の人々の自己資本による自営工場で、しかも蔵・長屋・納屋などを改造した建物が多く、織機も手機・太鼓機といった機種を使ったいずれも零細機業で家内工場であったと考えられる。

熊取村で織機原動力の技術改革による機械化の進んだ新鋭工場が最初に建設されたのは、明治40年に義本一氏が合資会社泉南織布工場、同5月に宮内良平次氏が久保に宮内織布および精米所の工場であるが、より近代化した工場の設立は、明治41年1月に熊取村紺屋に中林孫次郎氏が中林綿布工場、続いて同45年3月に原文平氏、中川文三氏、義本一氏らが熊取織物株式会社、道明市太郎氏の道明織物工場などが設立されている。これらの工場設立を契機に家内工業地熊取村でも近代的工場化が本格的に開始され、しだいに工場の大規模化や機業の経営拡大化へと発展・充実した。明治40年代以降の熊取の綿織物界は、家内零細工業形態から工場大量生産への著しい伸展がみられた時期といえる。

こうした近代的工場化が進んだ背景には、織機やその原動力機の開発・発達がある。熊取の工場でも力織機・原動力機に変化がみられ、明治40年に入って宮内織布及精米所では石油発動機三馬力によって力織機(職工10人)を稼動し、熊取における動力化の最初であるといわれる。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION