このひとびとは「夷人に師事するの恥とすべき、いずれか甚だしからん」、「我は日本の覆轍にならうべからず」、「必ず敵人の長技をならえば始めて敵人を備御するの理、あにあらんや」等と喧伝した。彼らは、古い皇帝の暦書を抱いて放さず、機器の導入は万にひとつもダメであり、その理由は「輪船、機器、恃むに足らざるなり。いわんや中国数千年来、いまだ輪船、機器を用いず、一朝は一朝の土宇を恢(ひら)き、一代は一代の版章を拓く。即ちわが朝は開創以来、西洋と通商するは一日にあらず、彼の輪船機器は自若たり。なんぞ康熙の時に西洋の輪船数隻、岸に近づくをゆるさざりしに、彼はすなわち首をたれて命を聴き、内地に一歩も入らざりしか。」ゆえに、「師夷」の活動は一歩進もうとすると諸方面の干渉と抵抗を排除しなければならなかった。たとえば、造船もそうであり、鉄甲艦の購入もそうであり、その他の海軍を発展させる措置はそうでないものはなかった。まさにこのために、海軍の発展の一歩一歩は相当に困難であったのである。
その二、清朝政府の海軍創設は、中国社会の近代化の進展と歩みを同じくしていたが、近代化は、一つの巨大な社会改革であり、また一つのシステムのエンジニアリングであり、ある一つの枝葉末節の改革措置だけでは奏功するはずがなかった。60年代、馮桂芬は「諸国を監する」という主張を提出した。「諸国同時に域を併せて、独りよくみずから富強を致すは、あに相類にして易行のもっとも大きく彰明較著なる者にあらざらんや?」(訳注、「国や地域をまたいで、繁栄し強大にさせるのは、最も普遍的で容易なことではっきりとしているものではないだろうか?」)とこれを解説していった。「中国の倫常名教を原本とし、諸国富強の術を輔として、さらに善の善たる者にあらざるや?」「中国の倫常名教を原本となし、諸国富強の術を輔とする」とは後の「中本西末」論の大本となった。この後30年にもわたり、「中本西末」はずっと「師夷」の指導思想となった。李鴻章の認識は最も代表的であり、彼は一方では「中国の文物制度は事ごとに西人の上に遠く出て、独り火器のみ万及があたわず、・・・中国の自強を欲すれば、則ち外国の力を学習するに如くはなし。」と認識し、また、「経国の略は全体あり、偏端あり、本あり末あり、病のまさにきわまらんとするに、標を治さざるを得ざるに、培補修養の方即ちここにありといわざるが如し(訳注 病気が重くなって、症状を治さざるを得ないのに、体質改善の処方がありますと言わないのと同じ事だ。したがって急場しのぎで西洋の末技を学ぶ必要がある、という意味)」と強調している。