この本末の観念の要求により、中国の「師夷」は西洋資本主義の生産技術を導入するだけであり、生産力の改善と発展だけで古い生産関係には触れようとはせず、逆にこの種の生産関係と「事ごとに西人の上に遠く出て」いる上部構造を徹底維持しようとしたのである。この様に「師夷」の目的と目的を実現する手段の間には、調和すべくもない矛盾が出現した。目的を実現する確かな手段もなくては、目的自体は開始当初から実現不能なものと運命づけられていた。これは、なぜこの改革が長期間低水準なままとどまっていたか、深まりを遂に見せなかったか、同時期に始まった日本の明治維新運動と比べて一段劣った根本的な原因の所在である。海軍は「師夷」の一つの突出した成果であり、もとより新しい軍種であるが、その編制は湘准軍の焼き直しであった。海軍の各艦隊は、現地に駐剳する封建大官によって支配され、長く中央集権化することが出来なかった。1885年、海軍衛門が成立し、「統轄画一の権」を掌握しようと試みるが、ついに奏功しなかった。まさに外国のある海軍軍人が、中国海軍の「明明たる欠陥は、則ち新法をもって旧制にまじえることなり。」と指摘し、又、「惜しむらくは中枢の権勢のはなはだ弱く、一任督撫の私に封彊を顧みて、各軍を聯して一隊となすあたわず。」と言っている如しである。その結果、ひとたび戦争にあわば、弊端ことごとくあらわれ、「南北洋は各々一方を守り、水陸は各々一見を具し、軍心は画一たるあたわず」、「船塢局廠、皆調動霊ならず、かつ多方の牽制、号令行われ難し。」これでは、負けない方がおかしい。日清戦争後、ある海軍将校は失敗の原因として、「既に海軍を設けたれば、必ず全て西法に按ずるべし。もって外侮を御するに足るに近からん。西人の海軍の創立は多年、その中の利弊、書を著し説を立てること、微至らざるなし。我が國海軍の章程は、泰西と同じからず、我が朝制の限らるるところにより、尽く倣い難く、勝算を操ること難き所以なり。」誠なるかなこの言!