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いわゆる挑戦は、国外から言えば、二面から主に来ていた。一つは西洋の列強であり、もうひとつは東隣の日本であった。前者は古くから存在していたのであり、とりあえずそのままにできた。時間の推移に従って、後者が最も主要な挑戦者になっていった。本来、北洋海軍の成立の初めには、その実力は日本海軍を超えていた。特に、「定達」、「鎮遠」の二艘の7000トン級の鐵甲艦は、日本海軍がまだ所有していなかったものであり、このためこれを畏れること「虎豹よりはなはだし」というものだった。大規模な中国を侵略戦争を発動するために、日本の明治政府は鋭意海軍の拡大につとめ、明治天皇は宮中の費用を節約して、内帑金を建艦経費に用いた。日本海軍は「定遠」「鎮遠」を撃滅することを目標に、特に「橋立」「松島」「厳島」という3艘の4000トン級の戦艦、いわゆる「三景艦」を製造した。日清戦争前の6年間で、日本は平均して新規に2艘増やしていったが、その装備と量は北洋海軍を追い越した。日本の虎視眈々とした挑戦に対して、幾人かの有識者は不断に未然に禍を防<やべきと言う警告をおこなっていたが、当局者は逆に危機意識に欠乏し、民族の運命がかけられた挑戦を正面から全力で迎えることをしようとしなかった。1895年、北洋海軍が威海衛港内で全滅させられるのは、意料の外に出ない。

日清戦争前の30年間は中国にとって言えば、挑戦とチャンスが併存した30年であった。中国はこのチャンスを掴んだかの如く、海軍建設の方面で相当みるべき成果を遂げた。問題は中国の当局者が挑戦を回避しかりそめの平和を求め、既に得ていた海軍建設を一日で灰燼に帰せしめたのである。このため、根本から言えば、中国はこの30年間、本当にチャンスを掴んだ訳ではなく、逆にこの百年間の得難い歴史のチャンスを逃したのであった。

 

 

1895年2月、北洋艦隊は全軍が威海劉島の前で沈没し、中国海軍に最後の壊滅的打撃に遭わせた。多くの有識者は30年来、海軍の創建のために出した巨大な労苦と努力はついに水の泡となった。それならば、中国には再び海軍を発展させる機会はなかったのであろうか。

 

 

 

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