そして、「もし、上海に駐すること久しくして洋人の長技を資取するあたわざるは、咎悔おおいかな。」1865年、彼は江南製造総局を設立し、1868年7月、江南製造総局が造船した蒸気船が進水し、一か月後竣工し、「恬吉」と命名された。これは中国が自力で製造した初めての外洋を航行できる蒸気船であった。江南製造総局が造船を開始して以来、中国の近代造船産業は自らのスタートを切ったのである。
江南製造総局の後を次いで、福州船政局が成立し、中国近代に創設された初めの造船企業となった。左宗棠は、「海上に兵を用いて以来、泰西の各国の火輪兵船は直に天津に達し、藩籬はついに虚設となり、星馳せ飆挙がり、これに当たるに足るなし。・・・海の害を防がんと欲して、その利を収めんとするには、水師を整理するにあらざれば不可なり。水師を整理せんとすれば、局を設けて輪船を監造するにあらざれば不可なり」として、かれの主導の下、福州船政局は1866年が成立し、機器の購入を開始し、外国人技師、職人を雇い蒸気船を製造し、併せて厳格な規則制度を設けた。外国人を招聘するには、まず契約書を立てて、その職責、賞罰、進退、給与、旅費等を明文で定め、信用を示すとともにこれを守らせ、良好な効果を生みだした。福州船政局は造船場を作ったのみならず、専門の「学堂」を設立し、中国の自前の造船と運航のための人材を育成した。1869年6月、船政局が建造した最初の蒸気船「万年清」が進水した。9月、「万年清」は外洋に出て試運転を行い成功したが、これは人心を非常に鼓舞し、後の造船のために経験を積ませることになった。
福州船政局自体、清朝政府がある方面について開放政策を実行したことの積極的な結果であった。これより、そこは中国の主要な造船工業基地となった。「万年清」以来、そこは5年間で15艘の蒸気船を製造した。これらの蒸気船は外国人の主導の下で建造されたものであるが、1874年、外国人職員の契約が満期になり辞職したのちも、造船業務は停止したことはないばかりか、発展したところもあった。短い8年の間にさらに3つの新たな段階を登っていった。1876年3月、「芸新」が進水した。これは中国の技術者が独立して設計し、建造した最初の外洋蒸気船であり、中国近代の外洋蒸気船の自力製造に先鞭を付けた。1877年5月「威遠」が進水した。これは中国が自力で建造した初めての鉄骨軍用蒸気船であったが、蒸気機関は国外から購入した新式の蒸気タービンであった。