しかし、当時の中国人にとってまだはっきりしていなかったのは、蒸気船を製造するには近代資本主義の機械生産技術に依らねばならず、封建的生産様式の土壌の上では近代海軍は出ないことであった。そのため、彼らは蒸気船の製造を非常に簡単なものに見て、手工業者がお手本通りに作れば一、二年の内に成功すると思いこんでいた。そして、六〇年代はじめ、曾国藩は安慶において、左宗棠は杭州において、それぞれ蒸気船の模造に着手した。彼らの蒸気船模造工作は基本的には実験的なものであった。しかし、彼らはここで、蒸気船を製造するには機械生産技術を導入しなければ確かにダメだということに気が付いた。四分の一世紀を経て、幾たびの徘徊と挫折の後に、中国人は造船の問題の上でついに観念の転換を行った。
観念の更新は中国の造船事業に発展の起点をもたらした。李鴻章は上海に到った後、外国の軍艦を参観して、「その大砲の精純、子葉の細巧、器械の鮮明、隊伍の雄整、実に中国の及ぶあたわざるところ、」「深く中国の軍器の遠く外洋に遜するをもって恥とする。」