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ただ、紳士(郷土の有力者)の播仕成が寄付した一艘だけは「夷船の作法に倣い照らして木料板片きわめてそれ堅実、船底は全て銅片を用い、・・・水師営を調撥して弁兵をして駕駛せしめ、逐日、大砲を演放して・・・轟撃はなはだ力を得る*1」ものであった。そのあとこの船に長さを増やし、材料はもとのままに、続けて新しい船を一艘作った。その新しい船にならって再び二艘を製造することを計画していた。この種の新造戦艦は、船身の長さ13丈余り、二層に大砲を安置し、合計40門、子母砲数十門を連ねて、300余人を収容可能であった。*2当時の西洋の海軍は、帆船から蒸気船に移っていく段階に位置していたが、戦艦はなお帆船が主力であり、おおまかに大、中、小の三つの型に分けられるが、潘仕成が製造した新船は西洋の中型帆船に類するものであった。これと同時に、晋江の人の丁拱辰は蒸気機関の原理の研究を行い、蒸気船の模造の実験を行った。当然の事ながら、その時はまだ蒸気船を製造する生産条件と技術水準を備えていなかったので、蒸気船の模造は成功しなかったが、もし西洋式帆船の投入量と力量を増加させれば、林則徐が構想したようなひとつの「船砲水軍」を建設し、それで英国の侵略者による海上での騒擾に対し抵抗し制御することは、問題にならないはずであった。

阿片戦争の時期を通じて、道光帝の英国の侵略者に対する態度は何度もひっくり返った。時には主戦であり、時には主和であった。皇帝は林則徐の堅固な戦艦を建造するという上奏を却下したことがあったが、あにはからんや後に、志を得ない書生の造船建議書に多大な関心を持ったのである。その書生とは安慶府の監生の方熊飛であり、その戦艦を建造することを乞う稟議書がなぜかわからないが道光帝の手中に渡ったのである。この稟議書はまずはっきりと「英夷、順を犯し、生霊を茶毒し、猖獗日に盛んなる所以のものは、我が軍の徒らに岸を守り、戦船のこれと水戦するなきのみ」と指摘し、「戦船ひとたび造られれば、必ず必勝の権を操らん」と認識した。最後には「長治久安、この一挙にあり」と強調した。このときは将に英国の艦船が再び北上し定海を侵犯し、次いで上海を攻略しようと言うときであったので、藁にも縋るというように、方熊飛の稟議書原本の写しを靖逆将軍・奕山に閲覧させるよう勅命し、併せて奕山に「悉心、勅を体し」、いかなる船式が「最も力を得るとなすや」調査し、「即ち堅実なる木材を購備し、喫緊に製造せよ」と命じた。

 

*1 奕山「製造出洋戦船疏」、「海國図志」(重訂60巻本)巻五三、第16-17頁。

*2 魏源「海國図志」(重訂60巻本)巻五三、「倣造戦船議」、第24-25頁

 

 

 

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