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このため、彼は一艘の1000トン級の西洋船と一艘の小型の蒸気船を購入した*1のみならず、西洋船を模倣する実験を開始した。林則徐が西洋船を模造することに熱中した理由は、彼の目から見て、英国の侵略者に勝つためには、英軍が恃むところの船の堅固さと砲の鋭利さに立ち向かうことを可能とする必要があり、彼の得意技が中国の得意技とするようにしなければならない。「もし、船砲水軍が断じて已むべからざるのことなれば、たとえ逆夷が海外に逃げ帰るといえども、このことはまた極めて籌画(ちゅうかく:準備企画すること)をなさざるべからず、以て海彊久遠の謀と為す。」また、朝廷に対して、広東税関の関税の十分の一で船と大砲を製造すれば、敵を制することは必ず余裕でできると建白した。図らずもこの挙は咸豊帝の厳しい叱責に遭った。しかし、辞職の後にいたるまで、彼はやはり「船砲水軍」を建設することは、英国の侵略者に勝利する必要な措置であると考えていた。かつ、「百船千砲、五千の水軍を得て、実に器良く技熟し、肝壮に心ひとしくあらば、もとより犬羊の命を制すること難からず。」と確信していた。*2彼がここで言う「船砲水軍」が実際指すのは近代的海軍のことである。

中国の近代史上、林則徐は西洋式海軍の建設を主張した最初の人である。かれの「船砲水軍」建設計画は実現しなかったが、彼の提唱と推進により、少なからぬ社会的影響を生み出した。中国の南東の沿海部のいくつかの省、特に広東省では、些かの有識の士が起ってこれに応じ、紛々と西洋船の模造の実験を開始した。但し財力と造船の水準に限りがあり、これらの新造の戦艦は、外洋に出られず「わずかに内河の緝捕の用に備えるべき」ものでなければ、「駕駛して出洋すべきも、木料板片、未だよく一律に堅致ならず、また敵を御すること難し」というものであった。

 

*1 John L. Rawlinson, China's Struggle for Naval Development(1834-1895), Harvard Univ. Press.1967, p.19.

*2 「林則徐書簡」第182、197頁

 

 

 

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