1995年のインドネシアとの協定
安全保障協定(AMS)は、どの党も大声で叫ばなかったが、南シナ海における中国の戦略的圧力に対する古典的均衡反応であった。ビルマにおいて戦略的足掛かりを得たことで、中国はマラッカ海峡に東西から圧力をかけている。(中国はまた、オーストラリアの東側面である南太平洋まで調査している。)AMSは、南シナ海における中国の拡大領土要求が、はるか南のNATUNA諸島までのびる可能性があるかもしれないというインドネシアの理解によって部分的に早められた。これらの島々は、大天然ガス発生地であり、インドネシアのジャワ島を支えている。過去にインドネシアは、中国がインドネシアの領域を要求しないと考え、南シナ海でワークショップを主催した。
AMSの調印は、インドネシアとオーストラリアを結ぶ安全保障上の利益が、両国を隔てる政治的問題(人権や、東チモール問題など)や「文明の衝突」の概念より、さらに重要だということを示した。AMSは、過去にインドネシアを過大に脅威視していた軍隊の時代後れの考えを一撃でしのぐ、効果的戦略政策を行う能力の重要な前進でもあった。
これは、オーストラリアが、相互の義務に基づく地域的パートナーとして調印した初めての合意である。スハルト大統領はアメリカとの同盟関係に協力する役割のために、かりにこれがジャカルタに根を下ろす考えだったとしても、長い間、インドネシアが堅持してきた「実効的で独立した」外交政策から逸脱する危険を冒した。スハルトは、共通安全保障というアセアンの考えを、彼が少しも信じていないと言うことを示し、アセアン会議においてAMSをあえて宣言した。
AMSは、APECを促進する背景で築かれたオーストラリア労働党のポール・キーティング首相と、スハルト大統領との個人的信頼関係だけでなく、インドネシアとの長期的防衛関係の結果でもあった。キーティングは、一部のオーストラリア人が考えているような、AMSをアメリカとの同盟と二者択一的には見なかった。それどころか、補充的なものと見なした。
AMS:不透明な未来
戦略的論理は政治の犠牲となりうる。1998年スハルト大統領の失脚につながったインドネシアの経済的かつ政治的な混乱は、AMS討議を放棄した。インドネシアはブラック・ホールのさなかにあり、多民族国家であり、群島国家である政治的脆弱性を浮き彫りにした。
オーストラリアは、現在のインドネシアを結び付けるインドネシア軍(ABRI)との関係を明白に維持した。自由市場と即座の民主主義を要求するイデオロギーに支配されるクリントン政府は、決して助けにはならなかった。アメリカ政府はスハルトをマルコスの強大な法令と見なしていた。たしかに、スハルトは民主的ではなかったが、第三世界において最も成功した貧困撲滅対策を成功させ、外交政策においても穏健派だった。新しい秩序なしに、アセアン連合は不可能である。