しかし同時に、同盟国がそれ以上の貢献をすることも期待した。イギリスの東スエズの撤退に際し、ニクソンの方針は、多くのオーストラリア人に同盟の価値を疑問視させた。アメリカとの同盟関係を維持すれば、紛争に巻き込まれる可能性があると論じられた。
ベトナム戦争の反省から、「前方防衛」の考え方に対する疑問が生まれ、公然と自主防衛が唱えられるようになった。それは、1976年11月の、保守党フレイザー政権の防衛白書に表わされている。東南アジアの旧植民地から、ヨーロッパの影響力が消滅し、アメリカも東南アジアから撤退したことを踏まえ、オーストラリアの優先的戦略関心地域を限定的に描写したのである。すなわち、南西太平洋、パプワニューギニア、インドネシア、そして、東南アジア地域のオーストラリアに隣接した海、大陸そして領域と定義されている。
オーストラリアは将来、他国の軍隊の一部として戦う為に外国に軍隊を送る政策より、むしろ自主防衛の方向に傾くだろう。1976年の白書はこう述べている。
「我々は、もし必要があれば、他の場所にオーストラリアが軍事貢献をすることを除外しない。我が軍の展開は効果的となろう。しかし、いかなる軍事行動も、遠い戦域ではなく、近隣で発生する可能性が高い。我々の軍隊は、あくまでもオーストラリア防衛軍として共同軍事行動を取るだろう」
1983年に選出されたHawke労働政権は、ポール・ディップ博士に1976年白書が謳った自主防衛の考えを再検討するよう諮問した。「偉大で強力な友人」(アメリカ)の利益の為の人質であることを望まない労働党政府の政治的立場を反映して、1986年のディップ博士の見直しは、オーストラリアにとって、積極的な意義を与えなかった。
1986年の見直しは、従来の優先順位を再検討し、オーストラリアは自国の防衛を整備できると結論づけた。見直しはこう述べている。
「我々は独自の防衛力を整備する義務があり、我々の防衛力はアメリカが一般的な西側の利益と考える他の状況のために自由に利用されるべきでない。いずれにせよ、その時々の状況に応じて、自国防衛の優先順位に照らして判断されなければならない」
自国防衛を強調した、この見直しは、アメリカの警戒心を呼び起こした。なぜなら、それは、オーストラリアをアメリカとの同盟関係の枠外に置こうとしているように読めるからである。ニュージーランドは、すでに離脱の過程にあった。ワシントンでは、ディップ博士の見直しは、アメリカから独立したオーストラリア防衛構想のアウトラインと見なされた。それは、アメリカの安全保障が依存しているグローバルな同盟体制を弱めるものであろうし、そこではオーストラリアも重要な役割を果たしているのである。
労働党政府の権威ある政策報告書である1987年度防衛白書は、ディップ博士の見直しを、国の政策は「同盟関係の枠内での自主防衛」の一つであると断言することによって修正した。この白書は、自国防衛に直接関係する地域から、遠く離れた場所での突発的紛争に対処するためのオーストラリア軍の派遣の可能性を認めた。この政策的柔軟性は、例えば、1991年の湾岸戦争における、オーストラリアの適度な貢献を認める結果となった。ニュージーランドの指導者と違って、オーストラリア労働党の指導者達は、自国の反核圧力団体からアメリカ軍を隔離できることを証明した。しかし彼らは、予測できない長期の戦略的影響と共に、これらの有権者に対しいくらかの重要な譲歩をした。