●尼崎臨海地域への移転
当社は尼崎臨海地域の東海岸町地区、中島川沿いに位置し、主に食用油脂を製造しています。設立当初、工場は尼崎市内にありましたが、油脂製造に伴う臭気や排水の問題から、昭和40年代に公害防止事業団と市から誘致を受け、臨海地域に新たに埋立られた現在の場所へ移転いたしました。
行政が工業地域用に整備してくれた埋立地と信じて移転したのですが、実際は細い上水道があるだけで、工業用水もガスも通っておらず、電気も動力ではありませんでした。しかも工場を建設しようとしても、毎日どんどん地盤が沈下していきます。沈下があまりにひどいため、現在でも当社の工場の下には引き出すことができなかった4tトラックとローラー車がそのまま埋っているほどです。やむをえず、自分たちの手で再度鋼材を用いて埋立を行いました。
現在でも工業用水はきておりません。逆にこうした制約が契機となって、水の使用量を減らす研究を重ねた結果、当初の一日あたり80tから20tまで減らすことができました。また臨海部に移転したために、輸送船のための専用のバースをつくることができ、取り引きや輸送量を増大できたのはメリットでした。
●技術開発よりも用途開発
当社は、油脂の技術開発よりも、用途開発に比重を置いています。当初は食用油の精製加工のみを行っていましたが、工業用の石鹸、化粧品、塗料、合成ゴムなどの添加剤に使えないかと考えました。社内では技術開発力も経済的余裕もないため、先方の企業に提案して研究開発をしていただく方法をとってます。
また父が宮津出身だったこともあって、漁業にはかねてから関心がありました。200海里問題や後継者難から、現在の日本の漁業は湾内での養殖が高い比率になっています。そこで、養魚用の飼料に油脂を用いる製法を開発しました。現在、生産量の約50%が、ベットフードや養魚用の飼料添加剤です。また鰯や大豆などさまざまな種類の油脂を扱うことによって、健康食品向けのEPAやDHAが抽出できたことも成果です。
当社が扱っている油脂は、全てが生き物です。できることなら、一切捨てることなく全て使用したいと思って用途開発に力を注いだことが、結果的に研究開発につながったと言えるかもしれません。
●環境対策と工場内緑化
油脂を扱う工場ですので、常に油煙、悪臭、排水などの問題があります。これらの排出方法は、大きな課題でした。環境に悪い状態で排出すれば、すぐに当局から生産を抑える指示が出され、操業に大きな影響が出ます。また、結果的にはそこで働く自分たちの身体にも返ってくることになります。そこで、最初から硫黄酸化物や窒素酸化物を出さない環境対策を考えました。
排水は、活性汚泥法をとっています。浮上処理を行い、由脂分を回収・精製して、自社のボイラー燃料用のリサイクル油脂として再生し、水分は凝集剤を入れて沈殿処理をし、蛋白と水に分別します。現在、兵庫県の新産業プログラムの支援を受けて、この廃汚泥と蛋白カスを土壌改良剤に使用できないか共同試作しているところです。
臭気は、工場全体で吸引曝気をし、アルカリ水を通して循環させ、通常の空気と混ぜて排出しています。
また、当社は取り引き先の企業のタンクの清掃等もフォローしています。自分たちが納品した油脂の行く末を確認できるだけでなく、先方の機械トラブルも事前に防止でき、結果的に安定した供給ができるからです。
現在尼崎市は、臨海工場地域の緑化運動を進めていますが、移転当初の指導がないまま、今日になって工場内を緑化をするのはかなり難しい問題です。我々はみな、狭い敷地の中に許可のとれる最大限の範囲で工場を建てているからです。
当社では、1本の葡萄の木の蔓を伸ばして葡萄棚にしたり、道路沿いのフェンスに蔦を這わせたりして、狭い土地でもできるだけ緑が多くなるよう努めています。
●震災復興と公的援助
移転後も10年間で約20cmも地盤は沈下し続けました。そして1995年、阪神・淡路大震災がおきました。当社も工場一棟が全壊、地盤は液状化し、約1000坪の社有地の下はほとんど空洞化しました。また液状化現象によって、最初に市が埋め立てた頃の水銀が噴出してきました。市に処理を依頼する交渉をしましたが、何の手だても施してくれません。やむなく当社で処理しましたが、わずかな量でも数百万円かかりました。桟橋も倒壊しました。震災後の整備には数億円かかりましたが、行政側の援助は3000万円以内の無利子無担保貸付という微々たるものでした。
たまたま当社は経常利益があったため、特別損失の形をとり約3年間かかって償却を終えましたが、赤字の会社はそれができません。近隣の会社の中には、この地震が契機となって倒産したところが何社もありました。