昭和24年(1949年)に初めて淡路全体を紹介する『淡路読本』が出されました。「狭くて細長い街路に人が充満しているのが名物であったこの町に、強制疎開のあとが廣々としているのも却って陰影を濃くし、百年政令の府を一朝に失った三百余年前の“由良引”後の淋しさが偲ばれる」とあります。軍国主義で栄えて、敗戦で寂れた様と、由良引けによって寂れた様が対比されています。高崎の砲台は立派なものでした。ちなみにこの高崎は元は竹崎と言われていて、その島の先に梅崎があり、島に面した所に松崎があります。
●由良の祭
由良の祭りは、奇祭とも言われている「ねり子祭り」や「夏越祭り」は今でも賑わっている反面、漁師の大事な祭りで非常にエネルギッシュだった「岬祭り」は費用も一番かかるため戦後、段々寂しくなってしまいました。「漁師のいっさん食い」という言葉が残っています。その日の収入はその日に使うという気前のよい漁師気質を現わしているようですが、実際は生活の苦しい時代にはやむを得ない生活であったようです。
バス内説明
「由良の自然環境、由良・生石研究村について」
村田武一郎氏/大阪湾新社会基盤研究会 理事・事務局長
●国産みの島、淡路島
淡路島には、日本が大陸と陸続きであった先土器時代(旧石器時代)から人が住んでいました。由良町佐毘からは、その時代の石槍が出土しています。
西暦350年頃、大阪港の奥に大和朝廷が成立しましたが、淡路島は、朝廷を守る軍事の役割、朝廷に食物を供給する御食国の役割を担い、朝廷を支えていたと言われています。この頃の淡路島の人々は、海人(あま)族と呼ばれています。元来、中国大陸の東シナ海沿岸に居住していた半農半漁の民で、製塩、金属器、織布、造船・航海技術、稲作などを日本にもたらしました。この海人族の伝承が国生み神話となったようです。
由良は、豊かな自然、海・山とのかかわりの強い歴史文化や生活文化を残しています。国生み神話の時代から第二次世界大戦にかけて、常に軍事的要衝であり続けたことが、豊かな自然や文化を今に伝えることとなった側面とも言えます。
●大阪湾における由良海域の環境
大阪湾の中では、由良海域(紀淡海峡海域)が最も優れた海域環境をもっています。その特徴は、次のように言えます。
・紀伊水道・太平洋と大阪湾の海水交換の重要な場所となっている
・岩場、砂浜、干潟等の多様で複雑な自然海岸と良好な藻場が残されている
・陸域からの鉄分等の微量成分供給がある
・自然度の高い山林が残されており、森と海の連続性のモデル地域である
・生石・熊田の海岸、由良湾等は、魚介類の産卵場、稚仔魚のナーサリーとして知られている
・内外交流種の重要な通り道であり、魚種が豊富で、高級魚が捕れる
しかし、一部で砂浜の減少、藻場の減少、水質の悪化、漂着ゴミの大量堆積が見られるなど、環境悪化傾向が見えます。主たる原因は湾奥部からの環境負荷ですが、漂着ゴミの中には、淀川、大和川、武庫川等の河川敷のスポーツ公園で遊んだ人達がなくしたボールも数多く見られます。
●由良地域の自然
由良地域の自然は多様性に富んでいます。つまり、自然形態が多様で、生物種も多様であります。
砂浜や干潟では、微生物や底生生物の働きで水質浄化が行われますが、ここには、大阪湾で数少なくなった砂浜や干潟があります。熊田地区の藻場は、春になると、お花畑のようで、実に様々な藻が見えます。この藻場は、魚の産卵場であり、藻や貝類の採取といった漁場でもあります。
成ヶ島には、貴重な海浜植物が残っています。マングローブの一種とも言われるハマボウは、夏に、さわやかな黄色の花を咲かせます。ハママツナは、干潟の一部を構成しています。
山の方では、豊かな植生が残り、ナガサキアゲハや古代からの姿を残すヒメハルゼミなどの昆虫の種類が多く、イノシシ、シカ、サルといった大型動物も生息しています。