(5) 海の歴史資源
ア 鹿久居島、鴎島から無土器時代のサヌカイト(讃岐石)が発見されており、鴻島の古墳ほか、古墳時代から奈良、平安時代にかけての土器も多数発見されている。
イ 鹿久居島の千軒には、鍛治屋敷、寺屋敷などの地名が残り、遺跡からは鎌倉時代のものと思われる土器が多数発見され、この一体の島々は海上交通の要所であったことがうかがわれる。
平安時代から鎌倉時代にかけて、後鳥羽上皇や藤原俊成、西行法師が鹿久居島の鹿の歌を詠んでおり、小帆船時代の海上交通の重要なポイントであるとともに、鹿の生息地として著名であったことがうかがわれる。
後鳥羽上皇 「月影に むし明のせと漕出れば八十島かけておくる鹿の音」
ウ 江戸時代には、田淵屋末友甚九郎が廻船業を営み、五島列島へ進出するなど、活躍していたことがうかがわれる。また、日生村は、室津から笠岡にかけて藩や幕府の公用船に水夫(かこ)を出す役を割当てられるとともに九州から紀伊半島までの入会漁業権を認められていた。
鹿久居島は、池田藩の鹿狩りの場所とされており、明治以降は国有林として保護された。
大多府島は、池田藩の重要な港であり、元禄防波堤は国の文化財建造物に登録されている。また、赤松則尚の自刃地、鹿久居島の流人小屋跡と首切島、鶴島の切支丹流刑地跡、大多府島の贋金づくりで処刑された勘三郎洞窟の伝説など、歴史的な遺跡も豊富である。
エ 明治以降、操業海域が日生町域に限定されたため、江戸時代からの漁法に改良を重ねたつぼ網や、朝鮮海峡から台湾、シンガポール沖水域へ打瀬網漁に小さな帆船で出漁するなど、先進的な漁業を展開していたが、昭和10年代に入って耐火レンガ工場が進出するとともに、それにあわせて機帆船による海運業が台頭し、大きく産業構造は変わってきている。
現在、日生地区海運組合船籍の内航船は196隻(タンカー135隻)で、ケミカルタンカーは全国の1/4を占め、船籍数は全国一である。