対照的に、最も穏健な形態は、多数派民族による国家の民主的コントロールである。多数決主義的民主制度を採用することによって、多数派の民族が、国家に対する自身のコントロールを正当化するものである。しかし、そうした多数決主義によっても、しばしば少数民族の自治が侵害される可能性を排除することはできない。その他、両者の中間には多様な形態が可能であり、例えば、民族的な階序を厳格に組織化し、その中で少数民族を体系的に搾取するという、多民族帝国においてみられる方策がある。
多民族国家における覇権的コントロールに関しては、国内の中央官僚が超民族的に行動し、最低限のルールを例外として、各地域に自治を広範に与え、結果として、多民族の平和的な共存が可能となるという、評価もある(McKim&McMa-han,eds.,p.247)。
(2) 覇権的コントロールの問題点
覇権的コントロールには、次のような難点が指摘されるであろう。まず第1に、覇権的コントロールが、基本的に民主制に馴染まないという点である。覇権的コントロール下に付与される自治は、少数民族や地域の権利として制度的に与えられるというよりも、中心的な民族やそれを代表する中央官僚による一種の「慈悲」「寛容」の表現なのである。したがって、しばしば専制に陥りやすい。こうした「上から」与えられた自治は、中心的な民族によって恣意的に縮減・剥奪される可能性も高いのである。
しかし、第2に、覇権的コントロールの最も穏健な形態である、多数派民族による民主的コントロールですらも、多数派の専制に繋がる可能性がある。むしろ、民主制によって正当化されているがゆえに、より強引なコントロールも可能となるのである。1992年2月から3月にかけてボスニア・ヘルツッェゴヴィナでは、ユーゴスラヴィアから分離独立を争点とした国民投票が実施された。しかし、既に民族間関係の緊張が高まっていた中で行われ、投票以前から分離独立に同意する結果が予測されていたために、ユーゴスラヴィアへの残留を主張していた少数派のセルビア人は、国民投票の正当性そのものを問い、ボイコットせざるを得なかったのである。
このように、どのような形態をとろうとも、覇権的コントロールにおいては、少数民族の集団的権利としての自決権が十全に保障されることはないのである。
そして第3に、暴力機関こそが、こうした覇権的コントロール、中心的民族による少数民族の支配の安定性を担保する要因であるという点がある。そのために、多民族国家における覇権的コントロールを安定的に維持するには、物理的コストが高くならざるを得ない。そして、国際的に人権観念が高まっている現在において、そうした覇権的コントロールの暴力性が、内外の承認を得ることは非常に困難であろう。覇権的コントロールは、後述する連邦制、多極共存、文化的自治と異なり各民族の平等性を前提としていないが故に、多民族性を十分に維持する方策とは判断しがたいのである。