朝日新聞は、ここがロシア国内では唯一正式な議会をもたなかった自治体であったと報じている。さらに、ウラジヴォストーク市は、昨年夏に市長の任期が切れたが、その後の市長選もまた不成立で、前市長チェレプコフがそのまま職務にとどまり、これをエリツィン大統領自身が12月に解任し、それをうけて沿海地方知事ナズドラチェンコが市長代行を任命するという事態を生んでいた。州知事と前市長の政治的対立・抗争は、1993年以来の長期にわたるものであるが、こうした事態が市民の地方自治への危機意識を生み、同日選挙の予定であった市長選挙は直前に取り消されたこともあって、投票率が約28%に達し、選挙が成立する運びとなったというのである(朝日新聞報道など)。市議選では前市長派が圧勝したため、今後議会による市長の任命も予想され、州と市の首長のあいだの抗争は、市議会成立というひとつの前進にもかかわらず、いっそう長期化する様相を呈するにいたったといってもよいであろう。
たしかに、地方財政法や自治体勤務法などの法整備が進んできて、地方自治制度の枠組みは形を整えてきた。したがって、地方自治の確立への歩みがそれなりに進んでいる側面に正当に着目することは必要ではあるが、自治体の形成、選挙という面からだけでも、ロシアにおける地方自治の現状は、なお内実をそなえるにいたっているとはいえないようである。問題を地方財政にまで広げてみるとき、市場経済への移行の過程における経済破綻、行財政制度や税制の未整備などもあって、事態はいっそう深刻である。さらに、すでに若干ふれたように、地方における実効的統治の要請とロシアの内外から要請される「地方自治」の理念との対抗・矛盾、加えてそれぞれに利権や政治的思惑がからんでのその深化が、事態をいっそう複雑にしているのである。
ロシアの地方自治の現状に対する言及は以上にとどめ、本稿の主題に戻ろう。
2 ロシアにおけるヨーロッパ地方自治憲章の位置づけ
(1) ロシアにおけるヨーロッパ地方自治憲章の紹介
1985年に制定された「ヨーロッパ地方自治憲章」は、ロシア自身による批准は1998年春になったが、ロシアにおける地方自治制度を検討する際のひとつの重要な素材であったことは間違いない。脱ソビエト化、脱社会主義をめざすロシアの政治過程と地方
自治制度の確立過程が、同時平行的に進んでいることと、そこで展望されていた政治制度がヨーロッパ近代の立憲主義への合流であったからである。実際、ロシアのヨーロッパ評議会への加入の条件のひとつに、ヨーロッパ地方自治憲章に国内法を適合させることが要請されてもいたのである。
ロシアで、ヨーロッパ地方自治憲章が広く国民にわかる形で最初に紹介されたのは、おそらく1990年5月以降のことと思われる。