この地方自治憲章のロシア語訳は、翌年早々に雑誌『人民代議員』誌に掲載されているが、1990年5月にこのヨーロッパ地方自治憲章の正規のロシア語訳が、ストラスブルグのヨーロッパ評議会において確定されているのである。これは、公式のロシア語版ヨーロッパ地方自治憲章である。実は、地方自治憲章のロシア語訳にはいろいろのバリエーションがあり、私は現在のところこのストラスブルグ版全文を見ることができないでいる。また、地方自治憲章を連邦議会の下院が批准した際のロシア語訳については、いずれの官報も条文を掲載しておらず、正規訳を確認できないでいる。
まず、ストラスブルグにおけるロシア語版地方自治憲章を確定する際の議論の一端を、ロシア大統領府の地方自治問題担当のザモターエフによりながら、紹介しておこう(5)。
ヨーロッパ地方自治憲章のロシア語版の確定に際してとくに議論になったのは、英語の“local self-government”、“local authorities”、“affairs publics”などのロシア語表現をどうするかであった。それぞれにロシアの歴史と現実を考慮しつつ選択されなければならない問題を含んでいた。そのためか、後にロシアで発表されるこの地方自治憲章のロシア語訳では、それをそのままに直訳すれば「地方自治機関」とか「地方権力」とかに表現が異なっているものが見受けられるのである。
ザモターエフが引用するストラスブルグ版の地方自治憲章3条1項は、そのロシア語をそのままに直訳すれば、「地方自治とは、地方自治機関が法律の範囲内において、自らの責任で、地方住民のために国家的事項の基本的部分を管理し運営する権利及び実質的な能力をいう」となる。この部分は、廣田他による日本語訳では「地方自治とは、地方自治体が法律の範囲内において、自らの責任で、その住民のために公的事項の基本的な部分を管理し運営する権利及び実質的な能力をいう」となっている(6)。このロシア語版には、地方自治は地方自治機関の活動をとおして実現するという、論理上の矛盾がある。「地方自治体」と「地方自治機関」とは決して同じではない。また、「公的事項」(affairs publics)は「国家的事項」となり、「地方自治体」が「地方自治機関」となっている。「公的事項」と「国家的事項」ではその意味あいは相当に異なる。しかし、これでは地方自治の固有事務などについてかなりのあいまいさを残すことになるだろう。
日本語訳でいう地方自治体は、英語ではlocal authoritiesとなっており、このauthorities自体がきわめて多義的であり、ロシア語では、地方権力、地方支配権、地域の権力などを意味する言葉に置き換えうるものであるし、フランス語表現(collectivites locales)をとっても、ロシア語にすれば、隣人集団、地方住民の団体、共同体といった意味になる。
ちなみに、地方自治法では、自治体は、都市的居住区域、農村的居住区域、共通の地域に結合する複数の居住区域、居住区域の一部及びこの連邦法律の定めるその他の住民居住地域であり、その範囲で地方自治を実現し、自治体財産、地方予算及び選挙による地方自治機関を有するとされ、地方自治機関は、地方的意義を有する問題を解決する権限を付与された選挙制の機関及びその他の機関であり、国家権力機関の体系にはこれを含めない、と定められていた。