(1) 基礎自治体を中心にして
ア オスマン帝国統治期
近代ブルガリア国家が誕生するのは1878年のことである。ロシア帝国とオスマン帝国の戦争後に結ばれたサン・ステファノ条約、さらにその条約の修正を目的として開かれたベルリン会議においてブルガリアはブルガリア公国としてその歩みを始める。このときブルガリアはオスマン帝国を宗主国としつつも政治的独立を果たし、立憲君主国となった。
これ以前現在のブルガリアの領土はオスマン帝国の統治下にあったが、中央政府から任命された総督、知事が地方行政にあたっていた。当初、オスマン帝国は住民の地方行政への参加を認めてはいなかった。総督や知事は、その私的なスタッフとともに地方行政に携わっていたが、地域住民の間においても同職組合、宗教共同体が都市、村落の末端の行政事務を担うケースも見られた。これはオスマン帝国下のバルカンにおいて一律なものではなく、地方ごとの慣習に基づく多様なものであった。
1839年のギュルハーネ勅令以降始められたタンズィマート改革の時代に地方行政制度の整備はその端緒につき、とくに1860年のオスマン州法が本格的に地方自治、地方行政を規定するものとなった。
オスマン州法は帝国をまず州に区分し、そして州を県に、さらに県を郡に区分すると定めた。それぞれの層に各宗教共同体の代表者によって構成される評議会が設けられた。この評議会は知事の諮問機関という性格を脱するものではなかったが、一方、帝国末端では各住区が首長を選出し、選挙による評議会をもち自治体の諸事にあたることが定められていた。
さらに改革は進展し、1871年には州自治体法が定められた。都市に自治体議会が設置され、制限選挙ながら住民の代表が選出され都市の環境整備、衛生事業などを担うことが定められた。
興味深いことに帝国の地方自治、地方行政のこうした整備と同時期にブルガリア人住民の間では、教会参事会、手工業者組合を基盤として自治機能をもつ社会組織がオスマン州法の定める評議会などにおいてブルガリア人住民を代表するはたらきをするようになった。こうした社会組織は「オプシティナ」と呼ばれたが、これがブルガリア近代国家の誕生から今日に至るまで地方自治の根幹をなし基礎的な行政単位となっているオプシティナ(基礎自治体)の由来である。
イ タルノヴォ憲法の制定
ブルガリア公国の基本法であるタルノヴォ憲法は1878年に制定されるが、それに先行する形で、すでにロシア暫定統治期に地方自治、地方行政機構の改編がロシアによって試みられている。