ロシアの試みはオスマン帝国の制度のもつ枠組みを根本的に変えるものではなかった。むしろその担い手を、トルコ系、イスラム系の人々からブルガリア系の人々に移したもの、そして、ブルガリアのオプシティナのもつ自治的性格を存続させるものであった。
タルノヴォ憲法における地方制度の位置づけも、この延長線上にあった。憲法第3条は「ブルガリアの領土はオクルジェ(後に「オクラク」と呼ばれるようになる。現行制度の「オブラスト」と同じく、中央政府に最も近い、広域の行政単位であるが「オブラスト」に「県」という用語をあてるので、ここでは「旧県」と表記する)とオコリナ(後に「オコリヤ」と呼ばれるようになる。以下、「郡」と表記する)、オプシティナ(以下、基礎自治体と表記する)に行政的に区分され、オプシティナの自治にしたがって、この行政区分を規定する法律が定められる」とオスマン帝国時代以来の基礎自治体の原則が基本であること、さらにその継続性を強調する内容となっていた。
1881年、憲法は一時停止されるが、翌年には「オプシティナと都市統治に関する法」が制定された。憲法停止期に制定されたこの法は、やはり同じ時期に制定された「県知事と郡長に関する法」、「県議会に関する法」とともに中央集権化を推進するものであった。中央政府の任命する県知事、郡長による基礎自治体にたいする監督が強化されたといわれている。
ウ 1886年都市オプシティナに関する法、村落オプシティナに関する法
1883年憲法停止状態は終結し、ベルリン条約によってオスマン帝国下の自治州となっていた東ルメリ州(東ルメリア)が1885年ブルガリアに統合されるとともに、「都市オプシティナに関する法」、「村落オプシティナに関する法」が制定された。この法律は1934年まで、ブルガリアの地方自治と地方行政を規定する基本的な法律となった。基礎自治体の議会は住民の直接選挙(男子のみの普通選挙ではあったが)によって選ばれた。ただし、被選挙権をもつのは30歳以上の資産家で読み書きができる者とされていた。首長及び助役は、基礎自治体議会の議員によって議員の中から選出(互選)された。議会は基礎自治体の意思決定機関であった。一方首長は国家機関や他の基礎自治体に対して当該基礎自治体を代表し、基礎自治体内の行政権をもち、議会の決定を執行、政府の合法的な要求を実行すると規定された。
基礎自治体の任務は、初等教育、医療施設、消防、図書館の開設・維持・管理、道路整備などと規定された。