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・産業

女満別町の基幹産業は農業である。農用地のうち畑が6,762haを占めており、これは全町の4割強を占めている。大規模専業農家の機械化畑作経営が主流で、麦、てんさい、ジャガイモが主作物となっている。また、網走湖沿いの低地では米作も行われている。

製造業は、旧女満別空港敷地に、自動車関連企業が進出するなど、空港を利用した臨空型の企業誘致が期待されている。

観光開発は、これから本格的に着手していくよう、各種調査を実施中である。また、平成13年完成を目指して、民間デベロッパーによるゴルフ場整備が進められている。

 

・まちづくりの方針

昭和55年から昭和60年頃にかけて、女満別町のまちづくりの基礎となる、いくつかの取組みがなされている。

まず、昭和55年には新しい総合計画を作成している。これは、当時まだジェット化されていなかった女満別空港のジェット化をにらんで「空港を中核とした活力ある町づくり」を柱にした計画であった。また、後半で紹介する「オホーツク国際音楽セミナー」を始めるきっかけとなった「女満別町青少年教育文化会館」が落成したのも昭和55年である。

昭和58年になると、町は研修レクリエーション基地化構想を打ち出している。この基調には、空港のジェット化(昭和60年)に併せて、交流人口の増大を図ろうという考えがある。その後、昭和60年は、女満別空港の待望のジェット化、「オホーツク国際音楽セミナー」(当時はオホーツク音楽セミナー)の開催、町議会での「花と音楽のまち」宣言などが行なわれている。「花と音楽のまち」宣言の「花」とは農業を、「音楽」とは教育を指しており、産業と教育・文化に力を入れていくという主旨である。

このように、この5年間で、空港を核としながら、産業と文化・教育によるまちづくりを進めていこうとする町の姿勢が、打ち出されてきたのが読み取れる。

 

・地域づくりへの課題と交流の位置づけ

女満別町の地域づくりは、良くも悪くも空港の影響を抜きに考えることはできないだろう。空港利用客が出すごみ処理の負担を嘆く声もあるが、年間100万人近い利用客がある空港をどう活かすかは、町の将来の方向性を決める大きな要因である。

昭和58年に出された研修・レクリエーション基地化構想も、空港を利用してやってくる滞在型の交流客を中心とした空間整備を行おうとしたものであり、交流はまちづくりの方向の中でも主要なテーマとなっているのが伺える。

 

 

 

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