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EDWARD BULWER LYTTON

 

翌年リガに移ったワーグナーは、劇場からの小規模な作品の依頼に全く耳を貸さず、専ら「リエンツィ」の制作に没頭した。この高邁な態度が劇場の意に沿うわけがなく、1839年の春に解雇を言い渡される。大都市での活動が目的であったワーグナーは、パリを目的地に定め、7月にミータウから海路で、ひとまずロンドンへと向かった。ワーグナーの「リエンツィ」カミ随所において、エドワード・ブルワーの小説よりも、むしろ女流劇作家の戯曲との類似点が多く見られるのは、ワーグナーがロンドン滞在中に、どうやら、この戯曲の舞台を見た所産と思われる。

ワーグナーがパリに到着したのは9月であったが、アルバイトで糊口をしのぎながら「リエンツィ」の仕事に励んだ。この作品が完成した暁に目摘す上演の場所は、もちろんオペラ座であった。当時のオペラ界ではジャコモ・マイヤーベーアとプロメンタール・アレヴィの二人が大御所であったが、ワーグナーはマイヤーベーアの好意にすがるべく、勇敢にも彼を訪ねると、快く推薦状を書き、オペラ座に送ってくれたのである。だが、巨匠の推薦状は功を奏さず、オペラ座の反応はつれないものであった。

オペラ座での上演が望みなしと見切りをつけたワーグナーは、1840年の夏に、標的を新しく完成したドレスデンの歌劇場へと転換する。彼は宮廷劇場の支配人とザクセン王に私信を書き、またしてもマイヤーベーアの支持を仰いで推薦状をしたためてもらった。

ワーグナーの手にドレスデンから、上演承諾の意を伝える書簡が届いたのは翌年の6月であったが、ともあれ「リエンツィ」の落ち着く先が遂に決まったのである。

ドレスデンの歌劇場には、ワーグナーの友人や知人達が大勢いた。ワーグナーは彼らにパリから手紙で「リエンツィ」の上演準備に関して、頻繁に連絡するのであるが、手応えは、ほとんど無かった。業を煮やしたワーグナーは、パリの生活を引き払い、1842年4月にドレスデンに転居するが、彼を待っていたのは、初日がいつ開けられるか分からない中途半端な状態であった。上演に向けてワーグナーが辛うじて準備作業を始められたのは、合唱監督で演出家フィシャーの協力を確保できたからである。

初日は10月20日の6時に開幕したが、夜半を過ぎても終幕を迎えなかったほど長時間の公演となった。ワーグナーは、既にリハーサルの段階でカットを提唱したのであるが、フィシャーの「カットする隙間が無いほど音楽が充実している」との意見に従って、敢えてカットを施さなかったのである。だが、上演時間があまりにも長すぎたのは、まぎれもない現実であったから、初日の後、ワーグナーは数カ所のカットを遂行したはずである。それでも、まだ長すぎたのである。1843年の夏に、一晩だけの公演のためにワーグナーは新版をしつらえ、総譜を数部だけ印刷させる。彼は1843年2月にザクセン王室の宮廷楽長に任命されているから、自作の再演に細心の注意を払った結果であろう。1850年代の末にドレスデンで新演出された時にも、ワーグナーは更に手を入れている。このようにして、ワーグナー自身による「リエンツィ」の決定版なるものが明示されない状態が続いたので、そこに目を付けたのが商売に聡い楽譜出版業者で、彼らは独自の版を作りあげたうえ、楽器編成にまで干渉を加えるという始末となった。

ワーグナー自筆の「リエンツィ」の総譜4巻は1868年12月24日にバイエルンのルードヴィヒ2世に献上されているが、やがてナチ政権下のドイツ帝国音楽会議所の所蔵となり、同会議所の総裁が、1939年にヒットラーの50歳の誕生日の贈り物にした。ワーグナー自筆の5作品の総譜の中に含まれていた。これらの貴重な資料はドイツ帝国総統の金庫に保存されていたはずであるが、ドイツ帝国崩壊とともに紛失したまま現在に至っており、「リエンツィ」の演奏に影響を及ぼしている。ヴォーカル・スコアは数種類あるし、序曲から終幕までの作曲構想のスケッチも存在するのであるが、ワーグナー自身の意思による決定版の総譜に関しては、完全な形で印刷もされず、写譜もされてはいない。その後1970年代にショット社から「ワーグナー全集」が刊行され、多くの上演がこれに基づいて行われるようになった。ともあれ、「リエンツィ・最後の護民官」は19世紀のヨーロッパにおいて最も多く上演されたワーグナーの作品であった。

 

こばやしかずお・翻訳家

 

 

 

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