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「リエンツイ」作出・初演の背景

“コーラ・デイ・リエンツォ”、そして総譜の行方

 

小林一夫

 

ワーグナーの歌劇「リエンツィ・最後の護民官」の主人公コーラ・リエンツィは、名前こそ語尾が一字違っているが、14世紀のローマに実在した人物がモデルである。

彼の本名はニコラス・デイ・ロレンツォ・ガブリーニといったが、通常、コーラ・ディ・リエンツォと呼び習わされていた。彼はボッカチョの生誕と同じ1313年にローマに生まれた。父は旅籠の経営者、母は洗濯婦であった。リエンツォが幼くして、貴族達に嫌悪の念を抱くに至ったきっかけは、弟が貴族の手によって理不尽に惨殺されたからである。弁舌爽やかな青年に成長した彼は、ローマの歴史に精通し、更に公証人の娘と結婚したことも加わって、若くして社会的に認められる存在となった。彼はドイツの王ハインリヒ7世の落胤であるという、まことしやかな噂まで流布されたのは、ローマの市民社会で希有な逸材でもあったからであろうし、こうした噂が彼の出世を幇助したことも否めない。法律問題に通尭したリエンツォは、やがて折衝担当官として、アヴィニヨンに居を移した教皇の元に遣わされるほど、民衆の信頼と支持を得ることになる。

ペトラルカの推挙で、教皇クレメンス6世によってローマ市の会議所所属の公証人に任命されたリエンツォは、この要職を通じて、政府の放漫な運営をつぶさに関知するところとなり、教皇の軍司令官の承諾のもとに、1347年5月に無血クーデターを起こして成功し、ローマにおける権力を手にすることになる。彼は人民国家の設立を提唱して、護民官の地位に就くや、すかさず、ローマ市内在住の貴族達を市外へと追放してしまう。同年8月に騎士の称号を授与された彼は、イタリアの筈都市間の友好関係を確固たるものへと進展させる。

ローマ市内への帰還を迫る貴族達との11月の戦い、不可避となった租税の引き上げ、その他いくつかの要因が重なって、リエンツォは貴族達ばかりでなく庶民達の反感をも買うことになる。彼が目指していたのは、古代ローマ帝国に倣った秩序に基づいて、ローマとイタリア全域を整備し、新体制を確立することだったのである。彼は、教会の世俗的な支配権の固執に介入したために、教会から破門され、投獄の憂き目に会うが、1352年に教皇イノセンス6世の計らいで社会復帰が認められ、元老院議員としてローマに返り咲き復権を果たすが、長くは続かず、1354年10月に、民衆によって謀殺される。

この波瀾に富んだリエンツォの一生を、メアリー・ラッセル・ミルフォードなる英国人の女流作家が1828年に戯曲化した作品が「リエンツィの悲劇、全5幕」で、イングランド地方の劇場で繰り返し上演され、巷間でもてはやされるほどの評判となった。

この演劇作品に興味を喚起されたのがエドワード・ブルワー(1803〜1873)である。彼の職業は政治家であり、文筆家でもあったのだが、1834年「ポンペイ最後の日」を著すや、思わぬ大ヒットとなり、英国はもとより、ヨーロッパの主要言語にも訳されて、たちまち広地域にわたるベストセラーとなった。彼が翌年の1835年に「リエンツィ・最後の護民官」と題して3巻にのぼる長編小説を発表すると、これも前作と同じ現象を巻き起こした。ブルワーは1856年にバロン(男爵)・リットン・オブ・ネーブワースとの爵位を賜り、貴族に列せられている。爾来、エドワード・ブルワー・リットン卿と呼ばれるようになった所以である。

一方ワーグナーであるが、1836年といえば、彼がまだケーニヒスベルクで田舎楽長の座に甘んじていた年であるが、ある日ベルリンで、当時プロシアの宮廷楽長だったガスパロ・スポンティーニ作曲のオペラ「フェルナンド・コルテス」を見て仰天した。音楽陣や舞台美術に莫大な経費が投入されていたからで、大志を胸に秘めていたワーグナーは、「オペラの上演はかくあるべき」との指針を明確に定めたのである。

1837年の夏にワーグナーは、ドレスデンの郊外ブラーゼヴイッツの旅籠に居を定めたが、この頃にエドワード・ブルワーの「リエンツィ・最後の護民官」を読破している。そして、この長編小説をスペクタクルな歌劇に仕立てあげるべく、直ちにリブレットの草稿を書き始めた。時にワーグナーは24歳であった。

 

 

 

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