第2幕の華美をきわめた祭典の前後、得意の絶頂にあるリエンツィは致命的ともいえる政治上の失策をおかしている。なかでも最もはっきりと目につくのは、反逆者は死刑に処すべしという掟をねじまげ、貴族たちに赦しを与えたことだろう。その結果、ひとたびは成し遂げられた民衆の無血革命は水泡に帰し、人々は自分たちの血でローマの自由を再び勝ち取らねばならない事態に追い込まれた。慈悲や博愛の精神といえば美談めくが、どんなに立派なモラルをかかげても、法と抵触したが最後、施政者は批判の矢に身をさらさなければならない。「人々の範たる護憲の担い手」をもって自認するリエンツィは自らの言葉を裏切るように、その場の感情に流されて、法を無効化してしまったのだ。その動機がいかに美しいものであれ、このときリエンツィはすでに独裁者への第一歩を踏み出しているといえよう。ギリシャ悲廓(たとえば、ソフォクレスの『アンティゴネー』)以来、連綿とドラマの主題をなしてきた、人間的な感情と法によって保証されるべき全体の利益との相克を、ワーグナーはこの場面のなかに描き出したのである。
その直前に、リエンツィがもう一つの失敗をおかしていることも見逃してはならない。彼は市政の安定に満足せず、ローマの威光をイタリア各地にあまねく広めることを宣言したばかりか、ドイツ皇帝の選出権をローマ市に与えるようドイツ諸侯に要求した。その結果、ローマはドイツ諸侯のあらずもがなの反感を買い、ヨーロッパの政治情勢のなかで次第に孤立を余儀なくされるのである。しかし、帝国主義的野望ととられかねないこの発言は、リエンツィにしてみれば不可避の決断ともいえる。カリスマ的指導者が求められるのは、世情が混乱をきわめた政治の転換期にほかならない。そして、いったん革命が成し遂げられ、世の中が平穏になると、法にのっとった官僚政治の体制が確立され、この手の強烈な個性は危険人物として組織の外にはじきだされるのである。逆に言えば、カリスマ的人物が自らの政治生命を永らえさせるためには、限定された地域における革命の成功の先に、ざらなる理想を民衆に対してかかげなければならない。外敵の鎮圧と征服、革命理念の普及を口実にした領土の拡張はその場合の最も手近な目標になりうる。革命の成功がそのまま帝国主義的志向に転換する所以も、まさにそこにあるのだ。
専制政治を打ち倒し、真の民主制を確立するためには、一人の人間の強烈な指導力が必要になる。しかし、その指導力があまりにもきわまると、民主政治の存続を脅かすことにもなりかねない。リエンツィという人物は、そうした政治の二律背反を最初から身に背負っているともいえよう。こうして滅びへの道筋をまっしぐらに突き進んでゆくリエンツィの姿を、民衆の翻意や革命の破綻ともども劇のなかに書き込んだワーグナーは、理想主義的ロマンティストであるばかりでなく、現実を冷徹な目で見きわめるリアリストの資質をすでにそなえていたというべきかも知れない。
聴きどころ・観どころ
途方もなく巨大な作品を造り出すこと、上演のためには質量ともに最高の人員と設備が必要とされるようなオペラを書くこと、従来のグランド・オペラをただ模倣するのではなく、舞台にもオーケストラにも贅のかぎりを尽くしてすべてを凌駕する作品を書くこと――芸術家としての野心に駆られた私はそう欲したのだった。
(ワーグナー『友人たちへの伝言』より)
これまでに書かれたすべてのオペラを凌鷲せんとするワーグナーの野望は作品の規模にも反映され、《リエンツィ》は5時間を越える雄編に仕上がった。そのため、短縮上演が慣例となっている。とりわけ、第1幕と第3幕のフィナーレは長大なうえに、行進曲やアァンファーレ、戦意発揚の合唱といった賑々しい音楽が執拗なほど続き、今日の美意識にそぐわぬ部分が多い。また、第2幕のフィナーレには20分を越えるバレエ音楽が挿入されている。ルクレーシアの凌辱をきっかけとして古代ローマが独裁から解き放たれる過程を逐一パントマイムによって提示しつつ、新共和国の樹立を寓意化したこの場面は、リエンツィの暗殺未遂という劇の問題点に向かって緊張を高めてゆくうえで重要な役割を担うものの、筋の進行にとって必要不可欠というわけではない。