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解説

「リエンツイ」鑑賞の手引き

 

理想と野望へのレクイエム

《リエンツイ》成立事情

ラスティニヤックは、セーヌの両岸に沿ってうねうねと横たわっているパリを見おろした。…「さあ今度は、おれとお前の勝負だ!」

(バルザック『ゴリオ爺さん』より)

 

ワーグナー(1813〜1883)が自らの生まれ育った環境を飛び出し、音楽家としてのキャリアを開始したのは1833年(19歳)。以来数年間、合唱指揮者ないしは楽長としてドイツの地方都市の小さな劇場を点々としながら、下積みの日々を送ることとなった。当時の平均的劇場といえば、オーケストラ団員の数も30人前後。歌手のレベルの低さともども、満足のゆく上演など望むべくもない。経営破綻の危機に瀕していたいくつかの劇場では、俸給がきちんと支払われないこともしばしばだった。ワーグナーがイギリス人エドワード・ブルワー=リットンの小説『リエンツィ・最後の護民官』を読んだのは、そんな遍歴時代のさなか、1837年のことである。ワーグナーは、さっそく『リエンツィ』の歌劇化を決意、台本を自ら執筆し、作曲の筆を進めた。それまで彼はドイツ伝統のメルヘン・オペラ《妖精》とイタリア風喜歌劇《恋愛禁制》の二作を完成させていたが、今度の《リエンツィ》はフランス風グランド・オペラ。作曲ジャンルの変更に伴う作品規模の拡大は、当然、自作が上演されるべき劇場の選択にも大きく影響する。《リエンツィ》に着手したその瞬間からワーグナーは、自分を取り巻くドイツの偏狭な劇場環境に心のうちで訣別し、世界都市パリを自らの野望成就のための射程に捉えたのだといえよう。

しかしながら1839年、意気込んでパリにやってきたワーグナーの前に苛酷な現実の壁が立ちはだかることになる。パリのオペラ座といえば、当時の音楽界の頂点。ここで上演されるオペラは歌劇場側が成功を当て込んで大家中の大家に委嘱する作品ばかりであり、無名のワーグナーにチャンスがめぐってくる可能性など最初からなかった。身のほど知らずな大志がたたり、ワーグナーはその後二年半あまり、妻ミンナともども、大都会の片隅で貧窮と屈辱の日々をおくることになる…。

ワーグナーがパリで完成させた《リエンツィ》は結局、1842年に故郷のドレースデンで初演された。その成功によって、ワーグナーは楽壇に華々しい第一歩を印すことができたわけだが、これは後日談に属する。この時点ですでに、彼は過去の自作への愛着を失っていたからである。ある意味で、ワーグナーは青年時代の夢をこの作品への情熱ともどもパリの土に葬ってきたのだといえよう。音楽の壮大な響きと主人公がたどる栄光から没落への道程には、若く覇気に満ちた作曲家自身の並々ならぬ野望ばかりか、結末に待ち構える挫折が予兆のごとく映し出されている。リエンツィが古のローマに自らの理想を投影させながら、最後は現実のローマに裏切られるのと同様、パリ征服を夢見た作曲家は、自分を拒否したこの大都会を失意のうちに去らねばならなかった。リエンツィの栄光を描きだすこの歌劇の前半をワーグナーがパリ到着以前に完成させ、パリで不如意をかこつさなかにリエンツィ没落の過程を作出することになったのも、偶然とはいえ、何か暗示的だ。劇の結末においてリエンツィは炎に包まれながら、自分を裏切った民衆に呪いの言葉を浴びせて死んでゆく。ワーグナーは後年、自分の野望をくじいた音楽消費の中心地に対して怨嵯の思いを隠そうとせず、この欲望と虚栄の渦巻く近代のソドムが炎上することを願ってさえいた。リエンツィを葬ったカピトールの炎は、パリを焼き尽くす業火というヴィジョンに結実したのである。

 

カリスマの楽光と悲惨

歴史上のリエンツィと歌劇の主人公

貴殿の誉れを自らの手で台無しにすることのないよう、心していただきたい。…栄光へのきざはしは、登るに難く、落ちるのはいともたやすい。とくと考えて、自分の出自、自分のめざすべきもの、自由を損ねることなしにどれほどのことが許されるのか、どのような地位と職能を貴殿が受けたのか、人々がいかなる希望を貴殿にかけ、貴殿が人々に何を約束したのか、思い誤ることのないように。さすれば、貴殿が共和国の主人ではなく、召使であることを見きわめることができましょう。

(ペトラルカのリエンツィ宛て書簡、1347年ジェノア)

 

革命の成功に大いなる共感を寄せた詩人ペトラルカが若干の危惧をまじえて述べているように、デマゴーグとしての天稟に恵まれた歴史上のリエンツィには、共和制という枠のなかにおさまりきれぬ強烈なカリスマ性がそなわっていたようだ。ワーグナーの同時代人ならば、そんなリエンツィの姿を通してすぐさま、より身近な動乱期の政治家群像を思い浮べることができただろう。たとえばロベスピエール、あるいはナポレオン・ボナパルテ……。19世紀になって、リエンツィという歴史上の人物に改めて光が当てられ、多くの文学作品に取り上げられたのも、フランス革命がもたらしたさまざまな混乱を体験し、今後の政治の在り方を過去の出来事に探ろうとする人々の関心のあらわれと見ることができよう。《リエンツィ》は作曲家の個人的な生の軌跡を刻印する一方で、当時の時代相を映し出してもいるのである。

ワーグナーは14世紀ヨーロッパの入り組んだ政治状況を本質的な要素に切り詰め、数年にわたるリエンツィの運命の転変をあたかも数日のうちに起きたことのように凝縮して、一篇のオペラに仕立て上げた。その過程で、リエンツィの姿は現実のものから、美化されていったとひとまずは言えるだろう。高邁な理想に殉じて身を滅ぼすリエンツィを、作者が最初から最後まで熱い共感をもって描いていることは疑いようがない。とはいえ、このカリスマ的人物が偉業を成し遂げながら、なぜ権威を失墜し、殺されねばならなかったのか――歌劇化に伴う筋の圧縮によって、その経緯にはっきりしたアクセントがつけられたこともまた事実なのである。以下、ドイツの政治学者ウード・ベルムバッハの説を援用しながら、私見をまじえて、リエンツィ没落の要因を探ってみよう。

 

 

 

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