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1) 現地の状況は第二次世界大戦後の我が国と類似した点が多い-戦中、戦後の経験者として、戦後我が国が辿った道から良い点悪い点を学ぶことの大切さを学生諸君に!

マニラの街は沢山の人が雑踏をなして歩き、自転車に乗り、車を動かしている。私のような戦中派にとっては、色々な意味で思い出が残っている土地である。また、初めて観る風景であるが、一般の状況にはまさに日本の第二次大戦後数年を経た時代を彷彿とさせる光景が多い。これは一般社会のみでなく、医療や病院においても同じことである。
2班に分かれて訪問した際、マニラ市内のレベリレッサ地区(カトリック教団体による医療計画、家族計画などが行われていた)を訪ねたが、1家族の子供数は平均5〜6人、これを3人に減少することを目標としているとのことで、平均1.39人と言われている我が国の現状と比べて数だけではむしろ羨ましい気もしたが、住居街の光景は将に昭和20年代半ばの我が国のものであった。
当時を知る人は我々の中では私一人だけであるので感慨一入であった。このような将に終戦直後を目のあたりにする光景は街の至るところに見受けられた。バスで街に出掛けた時、また遠く地方まで移動した際など特に田舎の貧しい地域では街のたたずまい、歩いている人々、遊んでいる子供たちなどにかつての我が国の姿を見る想いがしたのは再三のことであった。例えば、トタンで葺いた粗末な屋根を持つ小さな家で生活する人々、中には上半身裸で遊ぶ子供たち、しかし発展途上国の観光地でよく見かける金銭やお菓子などをねだる子は全く見なかった。現在の我が国に比べると極めて貧しい状況だが皆明るく精一杯に生きている様子がうかがえる。
このような状況は医療機関でもいろいろ見ることができた。ハンセン病の専門病院であるホセロドリゲス記念病院はマニラ北方にあり広大な敷地を持つ病院である。古くからヨーロッパの病院に見られるパビリオン形式(廣い敷地に平屋建ての病棟などが散在する形)で建物は古いものが殆んどだが内容はかなり整備したものをそろえ、良い環境を持った土地の施設で、療養する患者にはゆったりした絶好の環境と感じた。この病棟形式は我が国の国立大学病院でいうと明治・大正時代の形で第二次大戦後の復興期までは見ることができたが、昭和30年頃からどんどん建て変わってしまったものである。勿論、近代医学と医療の実践の場として近代建築と設備・機器を必要とすることは云うまでもない。しかし療養する患者の立場に立って考えるとこのような広々とした環境と雰囲気の中で行う医療が求められるのではないだろうか?
フィリピンの貧富の差は非常に激しいと聞いていた。これは他の発展途上国においても同じことではあるが、富裕階級はもの凄いほどのお金持ちだという。アキノ前大統領のお里の家、土地の前をバス移動の際に通ったがその土地はいくつかの町を包含してしまっているのだそうである。病院にしてもマニラの高級住宅街、「マカティー」にあるメディカルセンターは外観しか見る機会がなかったが、外からでも日米欧などの一流病院のたたずまいを呈していた。医療保険が無いこの国ではさぞかし高額の医療でとても一般の庶民には関係のない施設なのであろう。
このような状況は日本で云えば明治・大正から昭和初期の頃ではないだろうか?最後に私にとっての一つのエピソードを思い出すが、それはホセロドリゲス病院検査室でハンセン病病原菌(Mycobacterium leprae)のZiehl‐Neelsen染色で真っ赤にまった菌体を顕微鏡で見せていただいたことである。教科書の写真でしかお目にかかったことしかない私自身にとっても実物をこの眼で見たのは初めての経験であったし、実に綺麗な画像だなあと思ったと学生諸君にとってはかけがえのない体験だったと思う。

 

 

 

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