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を喪失した者が、自己価値を新たに感じて苦悩や孤立を徐々に打破し、家庭内や職場や公共の場など、すべての社会的分野において、聴覚障害者としての社会的権利をより適切に主張して自己実現できるということである。

難聴者や中途失聴者を対象とする、このように系統的なリハビリテーションは、本邦においては未実施であるが、リハビリテーション施設や聴覚障害者情報提供施設などで一部取組みが始められ、精神医学や心理学に携わる者との連携もみられている。ただ、概して端著についたばかりという印象であり、今後の成果の集積と発展が期待される。

次に、難聴者や中途失聴者のリハビリテーションにおけるメンタルケアを展開するときに、中心的な課題となる精神心理学的概念と応用について整理しておく。

 

2)喪失体験と喪の仕事

聴覚が胎生期の半ばあたりから成人並みの機能を果して、しかも、感情など精神心理機能と結びついているという科学的な証拠が提示されてきている。また、聴覚は音声言語とそれを活用した精神発達に必須のものであり、信号音や環境音なども含め多くの聴覚情報を人間にもたらすものである。

思考や行動の基となる知覚情報を与えるという意味では、聴覚と視覚は大きな役割を果しているが、表現を変えれば、聴覚機能を損なうことは人間にとって大きなダメージが生じるということになる。

この人間にとって極めて重要な機能を喪うないし剥奪されることは、心理学的には「喪失体験」あるいは「対象喪失」と呼ばれる。喪失するものは、最愛の伴侶や家族などの人、社会的地位、経済的基盤など、その人にとって大切なものは同様に心理的なインパクトを与えるとみるものである。当然のことながら、その人にとってより重要なものを喪失するほど、精神心理的なダメージも大きくなる。

米国精神医学会の「診断と統計のためのマニュアル(第4版)」には、精神障害の診断にあたり、心理社会的ストレスの強さを評価する尺度があり、「なし」から「破局的」まで6段階に分けているが、その尺度の強い方から2番目の「極度」に「重大な身体疾患の診断」という項目があり、中途失聴などはこれに該当すると思われ、相当のストレスを惹き起こすものだと言える。

そして、喪失体験に対する精神心理的反応として、まず「ショック期」が訪れるが、これは聴覚障害が発生したことが十分に把握できなかったり、深刻な事態に驚いたりして、心理的には感情が鈍麻して無関心な状態になることが多い。

次いで、障害を否認したり、いずれまた聞こえるようになるのではないか、と希望的観測に支配され、防衛的に退行して一時的な安定が得られる。障害者と自分が同一視されることに反発する一方、健常者に対する嫉妬や羨望を抱いたりすることもある。

やがて、否認などでは防衛しきれず、聴覚障害が現実のものであると認めざるを得なくなる。攻撃性が高く他罰的な場合は、怒りや恨みの感情をぶつけ、逆に、自罰的な形で現れると、悲嘆にくれ抑うつ的となって希死念慮を抱き、自殺企図に及ぶ可能性もある。

そして、喪った聴覚に対する諦めの気持ちが生じ、新たな生活に向かって建設的な自己努力を行うことができるようになってくる。価値変換を促す時期であり、やがて新しい価値観が獲得され、社会的にも新しい役割と生活が始められ再適応してゆく。

これは、聴覚障害など身体障害が出現して障害の受容に至るまでの心的な立ち直りの過程

 

 

 

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