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一つは、「技術中心主義」と呼べるもの。これは、日本の工業技術をより磨き上げて、原発の依存度を高めていく、ハイブリッド車を開発するといった対応をとるもの。

もう一つは、脱石油社会、循環型社会を目指すもの。農業と工業のバランスを取り戻し、農系回帰を目指す。全てがお金で買えるという市場原理、経済社会構造も見直すことになろう。

この2派のうち、どちらが日本を救い、地球を救うのかはまだ分からない。興味深いのは、前者が、主に通産省を中心とした「国」レベルで主張されているのに対し、後者には、地方の小さな「市町村」レベルで様々な取組が始められている点。私は両方が併存してもよいのではないかと思っている。「国」も大きく変わらなければならないという意見もあるが、やはり「国」レベルになると様々な利害関係があるため、車社会をやめる、工業をやめて農業に転換するといった大胆な方向転換は無理。市町村であれば、「うちの村でやってみたい」という町長さんがいたり、有力者がいたりすればどんどん実行できる。最近では、村おこしをかねて、「うちの村は木炭発電でやってみよう」、「水車エネルギーで織物をやりたい」といったユニークな発案があり、相談にのることも多い。地方で様々な取組が始まっているのに、国全体としては、なかなか方向が変わらないというのが日本の難しい状況。

技術を専門としている立場から言うと、「技術」に多大な期待をかけない方がよいと思う。工業技術というのは、必ず「ツケ」をどこかに回さざるを得ない。例えば、水質浄化装置は、確かに水をきれいにするが、その一方で、機械を動かすためにエネルギーと資源が使われている。また、リサイクル技術にしても、一見、資源を有効利用しているように見えるが、実はその機械を動かすために多くのエネルギーと資源が使われている。身の回りのゴミは減ったかもしれないが、その何倍もの負荷を地球環境にかけているのだ。

これは、自然界の三大法則である「エネルギー不滅」、「質量不滅」、「エントロピー増大」のうちの、三番目、すなわち「エントロピー増大」の法則によるもの。例えて言うならば、人間が何か行動をすれば必ずどこかにツケが生じ、そのツケを返そうと何かすればさらに利子がついて、サラ金のような状態になり、決して元には戻らないということ。しかし、それをもとの状態に戻してくれるものは「植物」しかいない。

また、工業技術からは、先程述べたような経済社会的な問題がどうしても生じてしまう。

以上のようなことから、私は、工業技術に対して否定的な見方をとっているが、小さなスケールの技術であれば、これらの問題を避けることができる。しかし、こうした技術は儲からない。現在の経済社会状況下では、技術者は大量生産、大量廃棄型の技術しか開発できない。仲間の技術者でも、このジレンマに悩んでいる者もいる。社会が変わらない限り、真っ当な技術は出てこない。技術が社会を変えるのではなく、社会が技術を変える。何か素晴らしい技術が登場して、社会が変わるという事態は極めて起こりにくい。現在の経済社会構造では、結局のところ、環境にツケを回す技術しか生まれてこないのではないか。

戦後50年、我々は、農業社会から人や資源を吸い上げて、工業社会に投入してきたが、こうした方向を見直す時に来ているのではないか。これは、環境問題、過疎・過密問題、食料自給率の低下等の問題の大きな原因の一つ。

また、大量の資源を外国から輸入し、消費して、環境へ大量の負荷を放出するという日本社会の構造も問題。資源は国外に無限にあり、後始末は「環境」が無限に引き受けてくれるという考えを前提にしているが、こうした考えが行き詰まることは皆気づき始めている。そこで、「循環」という考えが出てくるが、実はこれが難しい。外国から大量の資源を輸入し続けながら、国内で「循環」させれば確実にパンクする。ご馳走をたくさん食べて、トイレに行くのを我慢するようなものだ。実際、生ゴミを堆肥にしたら大量に余ってしまった、古紙回収をしてみたが倉庫に山積みという事態が生じている。お遊び程度に小規模な「循環」をやっている程度であればよいが、国際貿易の構造を変えることなく、日本全体で「循環」を追求すればパンクする。資源の投入=輸入をストップするか、資源の輸入量と同じ量を外国に返還するかしかない。アメリカから輸入した食料と、同じ量の屎尿をアメリカに輸送することは不可能ではないか?

 

 

 

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