取材のはじめの1年目は棒に振りました。「焼畑はいつやるんですか?」と椿山の人に聴いても要領を得ない答えしか返ってきません。誰も教えてくれないのです。仕方がないから夜になると一件一件訪ねて回りました。区長さんちを訪ねた時、彼が寝る直前になって「明日焼くかな」と突然言ったのです。…とにかくお天気次第なのです。焼くシーズンはあるけれど、暦が成立するような条件ではない。天気予報を見ているにもかかわらず、前日の夜まで決まらないのです。農耕暦と言うものの中にも暦の条件を持っているものもあるが焼畑はそんな条件にはありません。これは長い歴史の中に培ったもので、絶対のものに持っていこうとするとそれこそ関係の遮断が起きてしまいます。
ちなみに天気予報は半日から一日のずれで宮崎県の日向地方のを見ています。
-山を焼く時は30世帯全てが集まるのか?
先祖単位で集まります。元々この単位は12組みあった。それを考えると1組当たり2戸から多いところでは4戸くらいずつで行っています。
夫婦単位での労働も観られました。これは大切です。鳥羽の答志島では、そこは基本的な労働単位は家族単位になっています。船も家族で持っています。奥さんが海女の時、命づなは旦那が持ちます。魚採りは夫婦でやります。
漁村は助け合わなければならない・・・これは同時に山の村もそうです。「運命共同体」「個性がない」とか言われますが、これはばかにした論理です。個性はなくせと言ってなくなるような人為的なものではない。それほど生命の存在は個性的であると同時に社会的であり、孤立しているものはありません。個であって社会的集団であるのが妥当ではないでしょうか。個人主義のイメージは一人で生きていくことだと思っているのではないでしょうか?
ここには交換経済が成立っています。つまり小さい集団のあり方は大きい集団のあり方で、性質としては同じです。集落の中に交換経済があります。「結い」は労働の交換経済。これを遅れていると言う言い方でさげすんできました。これが現在日本社会の崩壊を招いているのではないでしょうか。
奈良田の焼畑は、山16ヶ所に団地ができていて、16年周期で戻ってくる。毎年一つの団地を決め、そこでくじ引きをして各家の耕作場所を決めます。そうして16年で戻ってくると言う計画で全山共有です。与えられた焼畑地は自分で責任を持ってやります。必要なときには血縁者に応援してもらいます。
椿山も昭和30年くらい前までは全山共有でした。ところが国の施策で造林が始まると、資金投入をするには相手が必要ということで、「分割をせよ」という施策が進みました。それをやってから人が悪くなったと言う人もいます。しかし、所有状態がどうであれ、労働形態は変わらないので大変な時は助けっています。この状態の変化が日本の焼畑を衰退させていく原因になっています。
穀物とミツマタ、そして杉まで植えます。春まきの作物も短いが夏まきのソバはもっと短いです。冬は使いません。「こうやし」では、大豆などを作ります。春焼畑、夏焼畑、こうやし、と三ヶ所で、10年近くはその農耕が続きます。コンビネーションを考えて20年周期で行われています。
放棄した山はかや原になっていき、そのなかに潅木も生えてきて、10年経つと潅木が優越し、中木になってきます。その落ち葉が栄養となり循環が成り立っているのです。
スギの植林は戦後の話しです。3年経つとミツマタがなくなり、そうして「林をつくる」と言うことに焼畑を変化させてしまったのではないでしょうか。