僕は大事に思っている日本語のイメージがあります。それは森と林です。日本語は森と林を区別していますが、どこが違うのか?
森は「盛り」の名詞化。神聖な場所で手を振れない。森には神社がある。「神社の林」とは言わない。
林はものが「生える」「お囃子」。ものごとが生え出てにぎやかになる、ということ。
また、日本語は神様の像をまだ造形していません。
江戸時代の新田開発の場所を尋ねてみると、平坦地に木が生えているだけで森と言います。ここは循環の場所としてしてなくてはならないところでしたが、最近はそういうデザインがめちゃめちゃになっています。それを回復することも一つの手がかりになるのではないでしょうか?…日本人同士が納得する手がかり、他の地域の人類にもある種のサジェスチョンを与えるのではないでしょうか。他者の存在の最も大きな意味は励ましであり絶えずヒントを与えます。「他者は鏡」です。
長い長い歴史の中で人間はどのようなものを培ってきたでしょうか。
あるTV番組の特集で、豆腐作りとチーズ作りを比較したことがあります。大豆は植物質で、チーズは動物質。私たちは豆腐とチーズは違うという前提に立っています。ところが事実を見ますとその共通性、普遍性は個別的です。「固まる」というものを通して同じ現象が見られます。
ある人の考えたある既存の論法を取りいれるとわからないことがあります。事実を見なければわらかないことがあります。
人生途方に暮れることがあります。広大なところに行くと何をしたらいいかわからなくなります。そんな時は自然に染まるだけ。そうするとみんなに「そんなことしているならなんかやれや」と言われてしまいますが。(笑)
また、そんなとき笑ってしまうときもあります。笑ってしまっても仕方がないがそこでインチキをしてしまうよりも笑った方がいいと思います。
戦前は旧石器時代がないと言われていてのその時代を神格化して考えていました。新潟県の奥三面で遺跡が見つかるまで雪の山奥で人が住んでいたわけないという風に提えていました。これはヨーロッパではこの様に考えていたため、日本でも同様と考えていたようです。
ここにはサケ・マス文化と言うものがあります。私はサケとマスの区別がつきませんでしたが、川をさかのぼる能力はサケよりもマスの方が優れていると言うことを奥三面に行って初めて知りました。よってサケは滝を上れませんので、奥三面で養殖するときはマスを使います。
昔の生活を学べば、人類の知恵や工夫が明らかになります。
中川の中流の川漁師を記録していたときに、その地域の歴史を取り入れようと、漁師さんとともに博物館を訪れました。そのなかに縄文時代の網のおもりがありました。漁師さんはそれを見て「あっ、これはコイ用のおもり、こつちはフナ用のおもり」と、すばっと言うんです。つまり生活者の体についた知恵がどんなものかがわかりましたね。日本人は今そういう文化を忘れようとしているのではないでしょうか。