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環境保全型里地づくり

連続セミナー5]

日本の民族文化を伝承する

 

講 師 : 姫田忠義(民族文化映像研究所所長)

開催日 : 11月4日(水)

場 所 : 民族文化映像研究所

 

●映像解説:椿山一焼畑に生きる(1977年 高知県吾川郡池川町椿山)

椿山は、四国の最高峰石槌山の南方、急峻な渓谷奥の斜面にある戸数30戸ほどの小集落である。平家落人伝説も伝わる。その椿山は、雑穀主体の焼畑作業を続けてきた。これは、椿山の焼畑を中心にした一年の生活と人々の生きざまを、4年間にわたって記録した長編である。

焼畑は第二次大戦後まで全国各地で行われていたが、1950年代に入って急速に消えていった。

しかし、椿山の人々は焼畑を続けてきた。その椿山の生活の大きな支えとなってきたのがミツマタ栽培である。春、焼畑地全域にミツマタの花が咲く頃、その刈り取りと皮剥ぎ作業が行われる。ミツマタは和紙、ことに紙幣の原料である。

ここの焼畑には、前年の夏に木を伐って春に焼く「春山」と、夏に木を伐ってすぐに焼く「夏山」とがある。3年前から5年作物を作って山に返し、20〜30年の周期でもとの場所に帰る。作物は、ヒエ、アワ、大豆、小豆、トウモロコシ、ツバ、タイモ(サトイモ)土地の高さや陽当たりなどの条件によってその作付け順序が決まる。

夏。突如、強烈な雨台風が椿山を襲った。周囲の山や谷、そして集落の足下も崩れ、その打撃のために生活のリズムが翌年夏までに完全に狂ってしまった。

再び焼畑作業が始まり、作物の豊饒を願う虫送りの行事や、中世の踊念仏を髣髴させる太鼓踊りのある氏仏のまつり、先祖祭りなども復活する。椿山は、11の先祖組みが、焼畑を軸としたここの社会生活の基礎単位である。

また、隣村からはるかに遠い地にある椿山には、昨今の日本人がややもすれば忘れがちなものが多々ある。例えば、明日への備え。各家の倉には山と積まれたヒエの俵がある。ヒエを必要とする時代は過ぎ去ったのに、である。収穫の秋、タイモを掘り、アワやソバを刈り、豆を引く。そして味噌や豆腐を作る。

満山の紅葉ののち、格山に雪の季節が来る。(「民族文化映像研究所作品総覧」より)

 

●映像量堂後のセミナー(太字は参加者)

農学の教授がかつて、「私は本当のところ焼畑を見たことがなかったのでこの記録を見て参考になった」と言ったことがありました。日本人が何をやってきたかと言うのを見るチャンスはあるようでないです。これは何らかの手がかりになってほしいと思っています。

-以前、椿山の後半をテレビで観て、是非前編を観たいと思いまして。あのように(山に)へばリつくように家があって怖くないのでしょうか?石垣も自分たちで作ったのでしょうか?

ここは人のお尻を見て上っていかなければならないようなところですね。

-食糧難時代に人の林を借りて木を切って食料を作ったことがあり、それを思い出しました。

 

 

 

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