調査内容
<東山町の取組の経緯>
日本百景の一つ「猊鼻渓」がある岩手県東山町は、宮沢賢治が晩年の3年間(34歳〜37歳)技師として働いていた旧東北砕石工場(現在は、三菱マテリアル株式会社に引きつがれている)のある町としても知られている。人口9,000人弱、農業と砕石が主な産業だ。
その東山町で昨年、いったん議会を通った宮沢賢治のまちづくりに関する開発事業案が、町民の要望を受けて凍結、見直しされるという出来事が起こった。運営の理念、計画、運営ノウハウや賢治の哲学を伝えるソフトのない構想の見直しと再検討を要望したものだ。
・「太陽と風の家」の運営方法、運営を考えたときの施設計画のあり方
・「付帯のレストラン」の運営方法、運営コンセプトが決まっての施設計画
・施設完成後の太陽と風の家のプログラム内容
いずれをとっても、内容がない計画が「箱もの」として計画されていた。
この発端は、賢治生誕100周年の1996年に旧砕石工場が文化庁に、近代化遺産として登録されたのを受けて、町は砕石工場及び、周辺の整備事業を開始した。整備事業の中心は、東北砕石工場を修復し、博物館として保存し、賢治の足跡を展示する計画だった。近代化遺産に登録されていることから、砕石工場内の修復や展示は、最小限度にとどめなければならないことで、開発業者案では、その隣接地に「太陽と風の家」を開設し、賢治の資料展示を行うこととなっていた。来館対象の見えない公民館的博物館、来場者予測のない施設計画、どこにでもある賢治の資料館になるのではと、賢治を研究する町民から「どこにでもあるような施設では、賢治の理念がまったく感じられない」との疑問の声から開発計画の凍結・見直しが行われることとなった。
東山町では、1997年6月、研究会を発足させ検討を行った結果をもとに、松川誠町長が工事の1年繰り延べと構想の見直しを決定した。
1998年3月研究会の提案に基づく代案を議会で可決し、1998年4月施設の建築が再開着工された。
<東山町の取組の現状>
旧東北砕石工場跡地の博物館構想と、付帯する施設「太陽と風の家」及び茶房は、当初開発業者案では、町の人の公民館的な役割と説明されたり博物館と説明されていた。この「箱もの事業」を、昨年全面的に凍結させ構想をソフトから組みあげ必要な施設とソフト運営を中核に据えて、全体の計画を再提案し議会承認を得た。残念ながら施設の基本的な要素、場所、大きさ、機能の変更は行われていないが、オープン後の運営を中心に検討が行われているために、オープン後に、本当の意味での「太陽と風の家」づくりが始まるという言い方が適切であると思う。
<課題の整理>
目下の最大の課題は、「グスコーブドリのまち東山」のまちづくりを、町民の中に広く共有していくことである。行政主導型でアイデアだけが空回りしているのでは、実行がおぼつかない。今後、町民を巻き込んでいくためにも、以下のような点について、できるだけ公開した形で検討を行う必要があると考える。