調査内容
<標茶町の取組の経緯>
集落問題が生起した背景
昭和35年当時17,400人から、現在の約10,100人への人口減は、当然ながら集落の戸数減をもたらした。そして、その戸数減は、
・各組織の総会に役員だけしか出ず組織活動の停滞
・葬儀がやりにくくなった
・生活に関わる行政の開催が困難にな った
・離農跡地が隣接地に斡旋されず特定の農家に集まるようになった、
等の問題を発生させてきた。
特に農村においては「土地を隣の家に渡したくない」と言う気持ちを持つ農家が少なくなかった。そうした感情や意識を変えるには、話し合いにもとづくコミュニケーションの形成を図ることが重要、と当時(昭和50年代前半)役場の関係者らは考えた。彼らは、これらの問題を克服するためには、住民自治の向上を基本においた集落再編を推進して、住民自身による地域社会の形成を図ることが必要と判断した。しかし、当時の行政のトップらには、住民が強くなることは驚異にあるという考え方もあって、当初それは浸透しなかった。だが、熱心な職員が住民自身による地域振興計画を立てることの意義を説き、集落再編を進めることで、今日の成果を上げる要因になっている。
集落再編の考え方
その場の集落再編の基本は、第一に住民主体の地域社会を形成する基礎単位としてのコミュニティー住区の確立においた。しかも、そこでは、新しいことがやれる体制づくりと農地利用の調整も行えることも念頭においていた。
第二に、再編のための統合の範囲は、住民の基礎的生活圏(地区、校区、住区等)をベースに住民自身が決めることとした。
第三に、組織化の基本は縦割りになっている各組織を束ね、それらを統括できる組織づくりにおいた。
第四に、青年と婦人の活動を正しく評価して位置づけるように指導した。
第五に、地区における学校の役割を重視し、そこからの支援・協力も重視した。
集落再編の進め方
集落再編の推進にあたっては、時間をかけて再編の課題を投げかけ、コミュニティ住区に対する住民の自治意識の芽生えを促した。また役場職員は各地区に足を多く運び、急がず・粘り強く推進していった。しかも、縦割り組織は統括する形で束ね、新たな体制の下で自由に活動できるようにするとともに、生活・社会関係の課題を優先的に取り上げることにした。
それらに加えて、校長・教頭、郵便局長、農協支所長、地区公民館長などのそれぞれの地区の「準内部リーダー」からは、再編の協力を得るようにした。そして集落再編をした住区には、役場や農協が集会所建設費の補助や活動支援費を出すことにした。