タウランガ港における改革の即効的な影響
最も大きなハードルは新たな労使関係への移行をマネージすることであると申し上げても、皆さんは驚かないでしょう。タウランガ港の役員たちは、労使関係を変える時には、これは地元主導で、地元コントロールのものにしたい、と強く願っていました。タスクフォースを設置し、労働条件を定義し、また、港湾荷役労働のさまざまな条件を定義をするという合意を得ようとした。この時重視した点は、港湾施設を最大限活用し、地元労使関係の文書化を行うことにより、個々の荷役会社が終身雇用を行えるよう努力したことです。この段階で、タウランガ港は、ニュージーランドの他のどの港湾とも違っていたということを申し上げたいと思います。すなわち、タウランガ港株式会社は貨物のマーシャリング、あるいは船内荷役のオペレーションには関与していませんでした。
われわれの考え方としては、これらのサービスは民間企業がやるべきであると考えたわけです。ガントリー・クレーン、その運転手、倉庫設備、保安、バースの配分と全体的なコントロール、管理場所の配分、水先案内、曳船、綱取り、ホッパー提供や波止場の清掃を提供することがわれわれの仕事であると考えていました。つまりこれだけわれわれは柔軟性があったということで、強みを発揮したわけです。役員たちは、改革後もこのようなフレキシビリティのもとに進めていこうと思っていました。この仕事は複雑で、地元と国家レベルでの何カ月間にもわたる交渉が必要でした。タウランガ港は、港湾規則をつくり、国の港湾の民営化における潜在的恩典を最大化にするための先例となりました。中心には非常に柔軟な労働方式を据えて、これは「7分の5」システムと呼ばれるもので、雇用者は一週間の7日間のうち希望する5日間に労働者を割り当てることを可能にし、休みのsafe guard付きで、1週間7日間、そして1日24時間のオペレーションの山や谷に対応することができる「7分の5」システムを開発したわけです。
民営化と改革によって新しい港湾会社はやっと選択肢を得たわけです。タウランガ港は、国における重要な輸出港としての地位を決して軽くはみていませんでした。われわれの一番大事な仕事は、顧客が何を求めているかを知り、また品質の高いサービスを提供し、永続的な商業関係をつくることがポイントです。1989年に、われわれの事業戦略を支える労使関係の文書を作成しました。大論争がありうるということはわかっていました。ということで、目標を達成するため荷役業者、荷主、船会社の支援を得ようと大変尽力しました。1989年に港湾労働者組合がストに突入し、港は34日間閉鎖されましたが、港湾側は自分たちの立場に対する強力な裏付けを得ていました。この年の12月に和解が得られ、「7分の5」システムが導入されて、われわれが求めたその他の改革も実施することが可能となりました。
民営化後のタウランガ港の所有形態については、われわれは積極的にリーダーシップをとろうと、その気持ちを示しました。政府の改革の主要な内容ですが、ご承知のとおり新しく港湾会社を設立し、今までの古い港湾局を解散し、港湾会社の株式を地方議会に移転しました。我々の場合には“Environment Bay of Plenty and Environment Waikato”に株式を移転しました。1990年には政府は港湾会社の株式をもっと幅広く公募しようと示唆していました。港湾会社の中ではタウランガ港株式会社は初めて公募したわけですが、3360万株を公募しました。一部の株式はEnvironment Waikatoが株式を売って公募にまわし、残りは新株発行によって増資したわけです。1992年の株式発行は大変成功裏に進み、事実、申込みは超過でした。タウランガ港の所有状況は、Environment Bay of Plentyが55%を所有し、残りが機関投資家または一般の人々が所有しているかたちになっています。政府が徹底的な改革を10年前に行い、ニュージーランドの港の民営化が進んだわけです。また、その改革の結果、何が達成されたのか見てみる価値はあると思います。