2つの理由のために、このような背景説明をしているわけです。ひとつは、公的所有の下にニュージーランドの港は効率性に欠けていて官僚主義的であった、商業的なインセンティブがなかった、ということで、顧客のニーズをみたすことができなかった、など、当然改革すべき理由があったのです。
ふたつ目に、港湾の民営化に至る改革というのは、それが単独で起こったわけではなく、1980年代の、ニュージーランドにおける改革のための環境がつくられていました。業界は変わらざるをえなかったということから変わったわけです。古いものから新しいものへと、経済のどの部分も変わりました。1980年代の労働政権下において、主要港湾の改革がどのようになされたかについて見てみます。
港湾所有形態の変化
ニュージーランド政府が最初に行ったのは、港湾の所有形態の見直しでした。おさらいしますと、1988年にはニュージーランドのすべての港は、港湾理事会(ハーバーボード)に管理されており、また、投資に関する決定は国によって設立された港湾管理者(port authority)によって行われていました。また、臨海、産業委員会が、港湾労働者の雇用に関する管理を行っていました。1988年に大幅な協議の後、港湾改革法案が通過し、非常に大きな影響がありました。この法の下、港湾理事会に属するあらゆる商業活動は、公的港湾会社に移されることになりました。そして株式が発行されたわけです。新しい港湾会社はその資産に対して配当をあげられるよう成功しなければならないというのは、一般の市場原則どおりです。税金あるいは税率ゼロという時代からは、ずいぶん変わったのです。
また、商業的事業に関しても改変するための措置がなされ、港湾理事会から港湾会社へ移されました。組合との広範な交渉が行われ、新しい会社の商業的な力を追求できるよう合意に達したのです。そして、港湾会社に一切が移転され、その次に政府は、港湾業界の規制緩和に移りました。
規制緩和は何を意味するのか?
民営化への障害は早々の無くなったのです。ニュージーランド全ての港の開発と施設投資の決定において、ニュージーランド・ポートオーソリティーがその判断力をもっていたことが解消され、新しい港湾会社がその分野に入ってきました。個々の港の資産の開発に関しては市場と商業的配慮のもとで行われるようになりました。また地方政府の広範な改革の一環として、1989年9月までに港湾理事会(ハーバーボード)がなくなることになりました。株式に関しても地方議会に移送されることになり、少なくとも株式51%を地方政府がもたなければならないという拘束も無くなりました。
また、臨海部産業委員会も解消されることになりました。それぞれの港においてような港湾荷役労働者を雇うためのシステムの採用については、それぞれの港で使用者団体が決定することになりました。これも非常に大きな影響がありました。公共所有、中央に管理されていた旧来の港湾管理は、歴史の一部となったのです。個別の港がそれぞれの将来を決定し、顧客のニーズに合わせて事業計画を立てることになりました。この最初の出来事が改革の潜在能力を理解し、新たな労働慣行及び管理慣行をもたらすことにならたわけです。
タウランガ港においては、われわれの競争要因を高め、さらに顧客の利益にかないたいと考えています。一方で、超えなければならないハードルがいくつかあることも認識していました。