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本日とり上げるにはあまりにも長い話ということになるわけですが、1888年に組合は、日常的な運営に関して非常に権力を持つようになり、政府は1951年に臨海地域産業委員会を創設いたしました。これも非常に論議の的となったのです。労働力をプールして、委員会がその責任を担うことになったのです。直接雇うというより、荷役に関しても、企業がこのプールからその人員を引出し、そしてこの人たちが作業にあたるということになっていました。したがって、組合が十分な団体交渉を出来ない、また国の仲裁に委ねるというかたちになっていました。

組合はかなりの影響力を持ち、労使関係はどんどん無法的な状態に移行していったわけです。1970年代においては、貨物のコンテナ化の進展によって全国でプールしている港湾労働者の数が大幅に減少したが、組合はもうけの出るシフト、生産性に応じたボーナス制度を要求し、そのような譲歩を引き出しました。新しい技術やインフラによる効率向上ではなく、ニュージーランドの港は労働慣行がゆえに立ち遅れてしまい、コストも上がってしまったわけです。さらに、いろいろと背後でもやりとりがなされており、例えば、船主が馴れ合い契約をして、ある程度先導するということもありました。ただ振り返ってみると、これを非難はできないのではないかと思います。ニュージーランドの港は、効率的な労働慣行を保証することができず、実際には公共所有のシステムが顧客に対する責任を十分に満たすことができなかったわけです。このような不可解な構造や労働市場のシステムが改革前のニュージーランドの港の利用者の意識にどのような影響を与えたのでしょうか。われわれの実績はひどく、顧客もそれに気がついていました。港湾の運営は、商業的な利益を上げなければならないという圧力はなかったのです。また、彼らはその土地に関する納税義務が免除されていました。商業的な圧力がなかったということ、また港湾労働に関する全国的なシステムがあったということは、港湾が労賃をコントロールするインセンティブがなかったということです。ですから港は非常にコストがかかる、効率性が欠如している、よく遅延が発生する、サービスが信頼できなかった。このまま続けることもできなかったのです。そういったことから、水際での改革のための圧力が高まり、さらに経済全体における変化によってこれが促されていたのです。

 

1980年代のニュージーランドと変革への圧力

1984年、ニュージーランドは労働政権の下、ロジャー・ダグラス蔵相が非常に大きな影響力をもち、抜本的な変化を促したのです。ニュージーランドにおいては、これはロジャーノミックス(Rogernomics)と呼ばれていました。ニュージーランド人が好むと好まざるとに関わらず、政府の助成金、規則、保護を放棄しなければなりませんでした。これが何十年もニュージーランドの経済の基盤としてあったわけです。経済を自由化することによって、市場経済の影響が入るようにしたのです。変化のための法整備ということでは、政府は規制緩和を進めました。特に財務部門においては、開放経済が確立されるということと、一部の部門における助成金は伝統的に国家経済の背骨となっていたわけですが、これも撤廃されました。したがって、経済に対する波及効果も非常に大きかったのです。労使関係も完全に書き直されたということが、1987年の労使法で決定されました。当時まで、裁判所の利用、差し止め請求、準拠する命令、その他の法的な行為が極端であるとみなされていました。そして、ストライキや産業の問題と戦うにあたって、この新しい法制度の目に見えない効果が雇用サイドにやる気を与えたと考えられたのです。全体的な労使関係というものがニュージーランドに登場いたしました。また同時に、失業率も大幅に上昇していたのです。組合の交渉力も侵食されていました。

 

 

 

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