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2 「私的所有-ニュージーランド・モデル」

ジョン.I.メイソン

(タウランガ港株式会社社長)

 

日本は、ニュージーランドにとっても重要な貿易相手国であり、私どもの港にとっての取扱貨物の35%を占めています。1980年代、ニュージーランドの港湾はニュースにしばしば取り上げられていましたが、その理由は港の抱える問題にありました。1週間のうちに、ニュージーランドの埠頭のどこかでストライキが起こったという話が取り上げられないことは滅多にありませんでした。輸出入業者と同様に、海運業者も遅れを常に予想しなければなりませんでした。島国は、貿易のつながりを港を通じた国際輸送に依存しており、港における破綻、効率性の欠如というのは非常に大きな悲劇となっていました。ニュージーランドの12の公共所有の港におけるスト、官僚的なマヒの状態を終結させなければなりませんでした。改革することは選択肢ではなく、必須事項となったわけです。ニュージーランドが他国との成熟した貿易相手国として機能するためには、この事態を変えなければなりませんでした。顧客を定着させ、新規に誘致するためにも変わらざるを得なかったわけです。また将来の需要に対処するにも変化しなけれはならなかったのです。

本日のお話ですが、公共所有の下でどのような状況に耐えてきたかということ、変化のための圧力、そしてどのようにこの変化を達成したかというお話をいたします。その中で、タウランガ港の経験として、ニュージーランドの港湾民営化がどのように達成されたか、そして当事者である我々にとっての意義に関してもお話したいと思います。タウランガ港はニュージーランドの主要な輸出港であり、ますます物流、貨物集積基地としても重要となっています。ほぼ10年前のニュージーランドの港湾の民営化が基盤となって、われわれは非常に盛況な港湾事業を営み始めるという前向きな変化が起こったわけです。

現在、ニュージーランドにおいては、港湾改革のための第二の波の必要性に関する論議が出てきています。これは80年代後半における一連の改革にそって論理的、経済的な結果として出ているものと思いますし、ダイナミックな国際貿易環境の中で10年前の変化で十分であると考えるのであれば、これは誤りであり、このままでは顧客に対して十分なサービスを提供できないということになります。我々が責任あるビジネスパートナーとなるために民営化によって柔軟な計画を立て、新たな方法を模索してきました。その結果、成功するという確信のある選択ができるような環境を整えました。公共所有の下では、「選択」という言葉は禁句でした。ちょうど世界におけるわれわれの海上の玄関口が、古い錆びた蝶番で支えられた時代のお話をしたいと思います。

 

公共所有時代のニュージーランドの港湾

1988年、ニュージーランドにおける港湾の構造というのは、植民地としての伝統を引きずったものでした。英国の港湾システムに基づいたかたちでの法が整備されたわけです。政府は、河口域、港周辺の土地を所有しており、これらの資産に関しても決定権を担っていました。地元の港湾理事会(ハーバーボード)が、荷動き、船舶の入出港に関する所得から資金を得て最小限の借金で施設を開発したわけです。私は6年間にわたってメンバーであったということから、この理事会がどのようなものであったかということを熟知しています。議会の法の下に、港湾の運営にあたっており、3年ごとにメンバーが選出されることになっている。この理事会の立場は、選挙での票決を占うというような地元に密着したものとなっています。選挙のサイクルをまず焦点として考え、商業的な点についてはあまり考えていませんでした。

これら理事会のネットワークの中央にあったのが、ニュージーランド港湾管理者(ボートオーソリティ)であり、特に全国的な港湾施設の投資に関して監督していたわけですが、全国規模で本当に調和のとれた開発計画を見たことはありません。このような構造になったということと、改革前の水際の労働力市場はまた英国の制度に戻ったような形となっていたわけです。このような構造が形成された歴史と1880年代後半に労働組合ができて以来の多くの論争は大変興味深いものです。

 

 

 

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