
●情に棹さすことも要る
※憶良らは今は罷らむ子泣くらむ そもその母も吾を待つらむぞ
=山上憶良=
〔私憶良はそろそろおいとまいたします。家では子供が泣いているでしょうし、その子の母(私の妻)も待っていますから〕
この歌は、宴会の途中で退席しようとする憶良を同席の人びとが引き止めているとき、憶良がジョークを交えてどうしても帰りたいと意思表
示したときのものです。海と無関係なこの歌を取り上げたのは、以前知人のAさんに聞いたよくありそうな話を思い出したからです。
ゴールデンウィークの一日、Aさん達釣り仲間はAさんの艇で沖に出ました。その日は調子がいまひとつで、釣れそうな場所を求めて転々
とし、ようやく良いポイントに来たときには夕方にかかっていたそうです。Aさんは家族に暗くなるまでには戻るからと言って出てきたこと
もあり、帰港までの所要時間を考えるとのんびりはできないと思いつつ、楽しんでいる皆の姿を見ると、"もう帰ろう"の一言が口に出せず、
結局予定より大幅におくれての帰港になったとのことでした。
最近は携帯電話の普及により家族との連絡はとり易く、帰港遅延による"行方不明"の心配は少なくなりましたが、スケジュールを大幅に
遅らせることは燃料切れによるエンジントラブルとか、気の焦りからのスピードの出し過ぎ、見張り不十分などによる事故につながりかねま
せんので要注意です。Aさんの例のような場合、同乗者がたとえ親しい仲間であっても、大事な客人であっても、安全運航に必要なことは
明確に伝え協力してもらわなければなりません。理由を説明した上で憶良の歌をもじり
※わしゃーのう今は罷らむ子泣くらむそも子の母も吾を待つけえ と付け加えれば一同爆笑のうちに和気あいあい
と予定どおり帰途につくことができたことでしよう
●おわりに
私達は無意識のうちに"地球上の全てのものは人類のためにある"との前提でものごとを考、えてはいないでしょうか。海についても同様
で、例えば先日ある新聞紙上に漁業権と遊魚権の対立のことが載っていましたが、内容を読みますと法律論争の形はとっているものの、いず
れも"海は我々のもの"という立場が前提になっており、これではいつまで経っても議論は噛み合わないだろうと思いました。
万葉の人びとはどうだったのでしょうか。四季の移り変りが顕著な我が国において、その影響を恩恵としてあるいは災難として受け止めて
きた私達の祖先は、自然と人間の営みの調和を模索するうちに、自然界の万物に人間の力ではどうしようもない「神」が存在するとかんがえ
るようになったと言います。海には海を司る神「海神」がいて、人びとは「わたつみ」と呼びました。転じて「わたつみ」は「海」そのもの
を指す言葉にもなりましたが、その語感には厳かな響きが漂っています。人びとは「わたつみ」に航海の安全を祈り無事に感謝し、豊漁を祈り
感謝しました。
そればかりか時化は海神の怒りと考え、その心を鎮めるため身を海に投じた弟橘媛(おとたちばなひめ)の伝説があるほど自然を畏敬した
のです。万葉集巻一八に、大伴家持がある年の旱魃に際し天に雨を乞うた歌があります。
「……雨降らず 日の重なれば 植えし田も蒔きし畠も 朝ごとに しぼみ枯れ行く そを見れば 心を痛み 緑児の 乳乞ふがごとく天
つ水仰ぎてぞ待つ あしひきの 山のたをりに この見ゆる 天の白雲怪神の沖つ宮べに立ち渡り とのぐもり合いて 雨も賜はね」と。
なんと素朴な慎しみ深い心情吐露でありましょうか。
以上、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う日」と定義されている「海の日」を前に"海とのかかわり方・プレジャーボー
トの場合"ということで愚見を述べさせていただいた次第です。 (島田兵二・七月十七日記)
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