
●袖振り合うもシーマン同士
※吾のみや夜船は榜ぐと想へれば 沖辺の方に楫の音すなり
=遣新羅使人=
[夜の海で船を漕いでいるのは自分だけだと思っていたら、もっと沖の方に楫の音が聞える。いま海にいるのは自分一人ではなかったのだなあ]
作者は新羅に向かう途中です。当時都から朝鮮半島へのルートは、瀬戸内海を抜け、壱岐島・対馬と飛び石状に渡り最後に対馬海峡を横
断しました。それにしても航海計器・海図・航路標識など何もなかった時代、月明かりだけを頼りに夜の海を漕ぎ航くのはどんなにか心細
かったことでしょう。そのようなとき近くに楫の音が聞こえたことで勇気づけられた作者の気持ちが伝わってきます。恐らく沖にいた船の漕
ぎ手も同様に勇気づけられたに違いありません。
船の性能が向上し航行援助手段が充実している現在でも、船影の少ない海域で対向船とすれ違ったりすると、見知らぬ間柄ながらつい手を
振りたくなるものです。運航目的がそれぞれ異なっていても、海に在る者皆仲間という意識は、その昔船乗りが板子一枚下は地獄、全員が
運命共同体との自覚の下に仲間同士の絆を強めたことと通じており、さらに、“困っているときはおたがいさま”が海上では当然のこととして
受け入れられる下地にもなっています。船員法には遭難を知ったときの救助義務規定がありますし、日本水難救済会の活動、BAN(Boat Assistance Network)による。プレジャーボート
救助事業及びこちら瀬戸内海小型船安全協会における諸事業も海に関係する人びとの連帯意識が前提となって成り立っていると言えます。
プレジャーボートのユーザーは、仕事で海に出る訳ではありませんが、海を愛することでは人後に落ちないシーマンの一員との自覚と誇り
の下に、海を仕事の場・生活の場とする多くのシーマンとの交流・協調に努めていただきたいと思います。
●ころばぬ先のゆとりある行動
※夏麻引く海上潟の沖つ洲に 船は留めむさ夜ふけにけり
=東歌=
〔海上潟(利根川河口にある)の沖にある洲のところに船を留めよう、夜もふけてきた〕
当時の人びとにとって夜の海は、私達が想像する以上に畏れ・不安の対象だったのではないでしょうか。
※遠江引佐細江のみをつくし 吾を頼めてあさましものをの『みをつくし(澪標)』は船の通航が可能であることを示す木製の杭のことで灯火はなく、夜
間には利用できませんでした。灯台はと言いますと、日本書紀中、天智天皇三年(六六四年)の項に『是歳、対馬島、壱岐島、築紫国等に、
防人と烽(とぶひ)を置く』とある『烽』が我が国最初の灯台とされています。『烽』は当初軍事上の目的で設けられました。すなわち白村江
の戦に敗れ守勢回った日本は、西側国境の防備を固めるため西方の島々や九州の山頂に防人を配置し、烽を設け、昼は白煙、夜はかがり火に
より軍用通信を行いました。その後七〇三年、新羅との関係悪化により遣唐使船の航路を朝鮮半島沿いから南島路(奄美大島から東シナ海を
渡る航路)に変更したことで、烽は遣唐使船の帰国目標、つまり灯台としての役割を正規に持つようになりました。しかし、もともと西側国
境防備の一環として設置された烽だったので全国的に配置されることはなく、ようやく江戸時代に入り幕府は『灯明台』と称する航路標識を
およそ一二〇基設置しました。灯明台には住吉神社、金刀比羅宮など神社の高灯籠を利用したものや主要な岬に新設したものなどがありまし
たが、その一つ御前崎の『見尾火灯明台』は、高さ二・八メートル、周囲は三・六メートル四方で、海上から見える三面を油障子で囲み、中
央に油灯を置き、灯明番として村民が二人ずつ交代で務めたそうです。欠点は光力が弱いこと
でした。
現代の海は逆に光が多過ぎて困ることがあります。瀬戸内海は海岸に沿って都市化が進み、市街地の照明やネオン、工場のあかり、自動車
のヘッドライトにテールランプ等々、慣れない夜の海で船を港に向けて進めていますと雑多な光の洪水に肝心の灯台や灯浮標のあかりを一瞬
見失うことがあります。そのことに気を取られていると周囲への注意が散漫になり思わぬトラブルを起こしかねません。よってプレジャー
ボートで夜の海を走ることはなるべく避け、日没までには係留場所に戻るよう余裕のある行動計画を立て実行するようにしていただきたいと
思います。
前ページ 目次へ 次ページ
|

|