「無害の原則」を考えつつも情報提供を怠ることなく、何もしないところへ逃げ込まずに関わる。 「善行の原則」により、何かの行為がされることによってどんな利益がどれくらいあるのかを考えながら行動する。 「正義の原則」により、公平分配、平等であるのか、自分の関わりを振り返る。「真実の原則」にのっとり、相互的な意思の疎通があった上で、真実が語られているか。 「忠誠の原則」を守り、期待を裏切らない。つまり、約束を守っているか。を思い出しながら、日々の看護に当たりたい。
倫理の講義の中で、一番心に響いたのは、「自分の価値観が強い人は、ジレンマは感じないであろう」という言葉であった。 「かくあるべきである」という思いは、誰しもが少なからず持っていると思うが、それは、“考え”であって、“思い込み”になってはいけない。常に頭を柔らかくして、原則を思い出すときは都合のよい一つだけでなく、6つ全てを思い出すようにしたい。相手を尊重する上で大切なのは、まず、自分自身の人生観、倫理観であり、自分自身を尊重することだと思うので、視野を広く持ち、多角的な見方を身につけたい。
家族援助
家族の中で誰かが病気になる。日常の中の、非日常。家族の危機である。病院という限られた場所では、日頃の家族関係が見えないことが多い。
看護婦は、キーパーソンや、家族関係をつかみきれないまま病状が進むこともある。残された家族が、思いを残したままにならないようにと考えるが、家族の形態や在り方が、自分自身の考えと違って、戸惑うこともしばしばである。
しかし、同じ人間として、自然体でいいのだと感じた。看護者自身が家族にどうなってほしいかではなく、 “生きる”そして“死ぬ”ことは誰にでも訪れる当たり前のこととして家族に関われればと思う。その中で、死別の悲しみに共感し、何を望んでいるかを感じ、その援助をしていくと考えれば、 “どこまで関わるか”や、 “どこまで立ち入ったらいいのか”という疑問はなくなるのかもしれない。深くのめり込まずに、かといって逃げもせずに関わるというのは訓練が必要だと思う。
家族援助は、人間的な成長のバロメーターかもしれない。
患者自身と家族の意見が合わずにどちらを尊重するかで、悩むこともある。私は今まで、患者中心に決まっていると思っていた。しかし、講義を受けて、家族、患者のどちらかということではなく、どちらも尊重しなければならず、求めに応じた関わりをしていけばいいのだと思った。死の需要の推進をはかるために背後に回り込むのではなく、最期まで共に生きられればと思う。そして、患者、家族の求めのままにではなく、何が必要なのかを考えた援助をしていきたい。家族が必要な時に必要なだけの援助を提供するためには、何時でも開かれた姿勢を保てる気持ちの余裕がなければと感じた。
精神的ケア
がん患者の援助にあたっては、心理的な特徴を捕らえておかなければならない。“なんとなく変だけれど病状がよくないから仕方がない”とせず、精神的にはどのような位置にあるのか、その時の状況、背景、言動から考えていかなければならない。必要な援助をするために頭の中で情報を整理するには、感覚だけで捕らえるのではなく、危機理論などのモデルを使うのは、有効な方法である。
日々、病状が悪化していく患者は、毎日が危機に陥る可能性がある。
がん患者のQOLを考える上で、心理状態は大変重要である。 “がんであるので気持ちが落ち込んで当然”ではあるが、“がんであるので鬱になって当然”ではないと思う。精神のバランスの悪さを感じても専門的な見方ができず、気がついたら重症の鬱だったというのは、避けたいものである。患者のメンタルヘルスをその時の病状と合わせて考えられる精神科医との連携が望ましく、そのときには、看護者は患者がどのような状態にあって、どのようになったら望ましいと思われるのかを言葉にして伝えなければならない。危機理論を自分の中に取り込んでおく重要性を感じた。
精神的なケアと言われるが、特別にしなければいけないことはない。毎日の良好なコミュニケーションが大切であり、プロフェッショナルフレンドシップによって、話を聞く傾聴の姿勢が大切である。それが信頼関係につながり、気持ちの変化を読み取ることにより、精神的ケアへとつながっていくと思う。
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