看護倫理においては、倫理上のジレンマに看護婦が立たされた時、何を基準にして、その解決のために決定しているかを問われた。私は、患者さんにとって、それが利益になるかならないかをよりどころにして決めていると言えるとしていたが、それは、私の価値観で利益不利益を決めていたと気づいた。倫理上の原則から、その利益の正当性を問うということを確認したい。
また、ここでは、患者さんの自己決定権の裁量をどれだけ推進していくことができるかを問われた。人は、自分の生活において自由で、自分のことは自分で決めたいと思っている。病院という環境の中では、自分のコントロール感覚を失いやすい。そこから、自我が縮小され、つまらない人間になっていく。人に依存しなければ生きていけない人間になっていく。そのことを指摘されたとき、入院している老人の患者さんたちの表情が思い浮かんだ。自分のコントロール感覚が心に及ぼす影響がどれほど大きいか、患者さんの自己決定を尊重する看護婦のスタンスの大切さを認識した。
緩和ケアについては、緩和ケアにおける概念、ケアにおける実践的な視点、看護婦の役割などの講義を受け、これから緩和ケア病棟を開設する施設にとって、とても勉強になつ々今までの私たちの緩和ケアにおける手探りのケアを思い出し、こうすればよかったんだ、あれでよかったんだなどと振り返ることができた。
ここで実感したことの1つは、 「緩和ケア病棟で基礎になることは、コミュニケーションである」ということである。その中で、患者さんやご家族の前では、看護婦としてではなく、緩和ケアの専門家としての個人、プロフェッショナルフレンドシップの関係であることを指摘された。ユニフォームを着て、キャップを被っていると、どうしてもその役割の人として患者さんやご家族は見てしまうし、私達も役割でものを言い、患者さんやご家族を規制してしまう。そのことから、緩和ケアの専門家としての個人、プロフェッショナルフレンドシップの関係は、コミュニケーションの上から大切なことだと認識し々
症状コントロールにおいては、事例を通して具体的な検討が多かった。疼痛コントロールにおいても、疼痛以外の症状コントロールにおいても、実践している施設の人たちは捉え方が的確で、今の私の緩和ケアに対する知識の程度がよく分かった。その中で、症状マネジメントの統合モデルは、実践において使えるのではないかと思った。
「症状緩和は看護婦の責任と役割」と言われ、今まで、私にはそのような認識はなく、がん性腹膜炎を起こし、嘔気嘔吐に苦しむ患者さんを目の前に、内心あきらめの気持ちになったことがある。しかし、この苦しみに対して、患者さんは看護婦を頼りにしていると言われ、あらためて、自分の役割を問いただされた思いがした。
家族援助論においては、家族看護学という新しい分野の看護学を学んだ。家族の捉え方、定義、目的などを理解することができ、家族に対する認識をあらたにした思いである。家族に対し、パートナーシップの関係であること、中立であること、家族観・価値観に自由であること、これらの点は厚手に銘じ、同じ仲間にしっかり伝えようと思った。
チームアプローチについては、老人看護に携わっていると多くの職種が関わるため、今日の医療の中では、その重要性は緩和ケアだけでないことを認識する。しかし、チームアプローチの構成の中で、他者から求められる役割期待、他者に求める役割期待、チームアプローチと言いながらのテリトリー意識、あらためて、私たちの施設においてチームアプローチの問題を認識した。
精神腫瘍学については、今まで、その認識を持っていなかった。身体の痛みのケアに続く心のケアを精神科領域で関わると知り、また、その関わりの重要性を知り、この領域についての認識不足を痛感した。 「がん患者さんを死にゆく患者さん」という特別な思いで関わっていることが、患者さんの孤立感や疎外感を増していることに、この講義で気づき、目から鱗が落ちた思いであった。精神腫瘍学は、痛みの緩和とインフォームド・コンセントが前提で、患者さんを不安にさせない、孤立させない、そのために今ある情報を患者さんに提供するとともに患者さんから聞き出すことから始まるということも認識した。
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