在宅になっても困らないようにするには、患者が症状コントロールする主体者である必要があり、訪問看護、緊急対応についての知識を持っていることが大切である。それ以前に、患者が何を望んでいるのかを知ることが一番難しいのかもしれない。なぜなら患者を「終末期・がん 患者」として見ている傾向かとの医療者の中にもあるからである。彼には、国体に参加した優美な経験があるかもしれないし、彼女には苦労して育ててきた子供に対する強い思いがあるかもしれない。緩和ケアは、患者という殻をはずしてただ一人の人に戻せるという利点がある。患者の生きてきた歴史をともに振り返ることで、現在の自分がどうあることが明日の自分を生み出すのか、自分の生きる意味は何か、自分が死を迎えても後に永続されるものがどんな形であるのかをゆっくり振り返る時間は一般の病棟には持てないと思われる。
終末期の患者にとっては、我慢して怖くて痛い治療をすればよくなるといった価値観はない。今日が最後の日になるかもしれないのだから、今日のQOLを保つことが大切なのである。だから、個人の生活をよりその人が望んでいる生活に近付けるかを全力でしていくことに意味がある。患者を死から救うことはできないが、自分の大切な人や物、自然や活動に対して一つずつ喪失していくような孤独の中から救うことはできるかもしれない。それは、患者を孤独にしないことである。細かな要求の裏側にいつも自分に応えてくれる人がいること、気遣って配慮されることでそのどうしようもない寂しさを癒そうとするのだと思われる。そんな患者の訴えは、手術出しを次々とし輸液を交換しなくてはならない病棟の中では、わがままな患者としてうとまれることすらあるかもしれない。いくら看護婦が解っていても同室の患者が許さない。そして、平等な看護をも提供しなくてはならないだろう。こうしたジレンマに対して看護婦は何でもしてあげることがよいことと錯覚してしまうかもしれないが、そうではない。患者のいわれるがままではアセスメントの余地がない。患者がどういう気持ちでいっているのかを検討した後、単に緩和ケアは何でもしてくれるところと思い違いをしている時は丁寧に訂正するべきであろう。患者に社会の中で生きる人としての敬意をはらうことは何でもすることではない。緩和ケア病棟のコールは今模索しているところである。
緩和ケア病棟は幾ら人がいても足りないのでは、と思われる。どんな職種でも患者のニードを満たすことができるならよいと思われる。多くの施設には緩和ケア病棟に足を運ぶ栄養士がおり、MSWがおり、OT、PTがいる。また、20床を超す病床数で質を保つには日勤で6人持ち(一人2〜3人)は必要だろうと報告会で話し合われていた。栄養士を専属にすることは、栄養士の持つ意識についても知らなくてはならないし、一日の仕事量も知らなくてはならない。どんな部門の活動でも、動機がなければ続いていかない。患者にとって食べることは今日を生きることであり、毎日余命と天秤にかけているという事実を知らなければならない。
また、緩和ケア病棟は敷居が高いとか特別待遇などの声は、病棟が何を目的としているのか理解されるまではあって当然のことであると思われるが、外科には外科の、化学療法中にはそれなりの配慮された食事があってよいとすれば、それをきっかけに栄養課と話し合う必要があるのかもしれない。こう考えてはいるが、病院の考える緩和ケア病棟の位置付けは本当のところ私には図り知れない。
何を生かしていくか
実習で、私は患者の目的をどのようにとらえるのか、ゴールをともに決めていくアプローチがとのくらい意識的に行われるかということを知りたいと思っあ。と同時に、ここが自分にとっての死に場所になるかもしれないといった緊張極まりない時間を、どんな風にやわらげ、安心感を与えるのか入院当日に視点をおいていた。しかし、その期待は見事に打ち砕かれた。何ら一般病棟と変わりがなかった。また、症状マネージメントに対するカンファレンスの在り方や、デスカンファレンスを通して得られるポイントのしぼりかたを学びたかった。
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