実習施設においても見学した施設においても、一番気にかけているのは患者の意思であった。患者が何を期待して入院してくるのかを認識していないと、双方にとって満足な医療は展開されない。限られたベッド数の中で県立として設立された病院としてどうあるべきなのか、ということを私は初めてこの研修で考えさせられた。同時に県周辺の人々ががん医療に期待するものの中で、緩和ケアはどう理解されていくことがよいのだろうか。緩和ケア病棟に入ったらもう終わりだ、などという声が聞こえそうな現在の理解の中で、緩和ケアもほかの病棟と何ら変わりのない一つの部門としてある方が入院される患者にとってよいかもしれない。緩和ケアのスタッフがとりきれない症状のマネージメントに繰り出し、病棟と行き来してなおコントロールがつかない患者に対し、緩和ケア病棟に入院してもらうという風にすることで、患者の持つ死の家といったイメージが薄くはならないか? しかし、そうできるにはまだまだ年数がかかるであろう。症状コントロールに対する努力の末、先駆的な確立したものがなければ認められない。どの病棟も、自分たちも看護の意識は変わりないと思うであろう。そして、終末期の患者の中には、なじんだ環境の中で顔見知りのスタッフのケアを受けたいと願う人もいるであろう。こう考えていくと、やはり緩和ケア病棟に入院することを患者が希望していることが第一条件であり、ついで家族が緩和医療に対して理解していることが必要である。緩和ケア病棟が何をするところなのか、初診の時から何らかの形で理念を啓蒙していかなければならない。多くは、電話相談をして外来にかかり、そのまま在宅でいられるのであれば、再診もしくはデイケア病棟で症状の調整、家族の疲労に配慮する。患者や家族が入院を希望したとき、主治医の紹介を含め入院の判定をしているところが多い。緩和ケア病棟では体験入院をすることもあるようだ。主治医はできれば患者が専任医と信頼関係が築けるまでは、カルテを診にくるだけでなく患者に会い、つながりの感じられる距離感を保つことで、患者は自分の存在を確認することができると思われる。
では、病院全体のゴールは何か。がんの治療に対する研究が進み重粒子線や分化誘導療法などの開発が急がれるなか、がんの治癒に対する望みはまだ持てそうにない。そして、がんになって慢性的な経過をたどることも事実である。そう考えると、がんであっても苦しみのない日々をおくり天寿をまっとうするという発想について腫瘍学の児玉哲郎医師が語っていた。がんセンターは集学的治療の研究施設としてのゴールを掲げる一方、症状コントロールに対する研究もしていかざるを得ないと思う。そう考えた時の緩和ケア病棟の使命は大きいと思われる。ピースハウスでは、日本の緩和ケアよりはるか20年先の医療をしている諸外国との交流をしている。患者の症状に対するマネージメントを医師のよき相棒となれるだけの研究心を持ち取り組んでいる。一人一人の身体も心も立場も魂もみな違うが、大切な患者に対する治療をさじ加減でするというのは専門職のすることではない。行った治療を積み上げていく努力をすることである。こうした作業は緩和ケア病棟だけでは賄い切れない。チームの一員として、薬剤師を巻き込んで薬剤の知識を共有したり、データの蓄積に協力を得る必要がある。それが、病院全体の患者のために役に立つであろう。それは、薬剤だけによるものではない。ケアの在り方に対しても同じことがいえる。
ケアは教科書に添っていればできるものではないが、患者がその時どういう気持ちでいるかを知るには心理的特徴を理解し、その上で個別のケアをする必要がある。患者が入院した時から家で過ごすことを望むなら、終末期の何日かでも家で過ごすというゴールに向かう必要がある。各専門分野ができることを出し合い、ケアプランをチームで決めなければ可能性はどんどん小さくなる。そしてよくある傾向としては、在宅にと退院した後の緊急入院が多くなっているという。
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