もちろん、環境庁の発足とともに、公害の部門でいえば公害基本法、自然環境の面でいえば自然環境保全法というような法律ができました。また、今のアセス法のかなり前々段階になるんですが、公共事業にあたっては事前の調査をしなければいけないと、まだアセスのような手続きを定められたわけじゃないんですが、事前の調査が必要だというようなことも閣議決定などで定められた時代でございます。
当時、保護団体の方々からいろんな話が来るのは、私どもの自然の関係でいえば、ほとんど貴重な自然の問題でございました。多分、まだ皆さん方の記憶にもあると思いますけれども、尾瀬の道路問題ですとか、富士山の道路問題ですとか、そういったような、いわば国立公園の中の1級の自然があるところ、そこでの自然破壊、それが問題になっていたときでございます。もちろん、そのころから生態系とか自然保護とかという、そういったような言葉が新聞紙上を毎日賑わしたときでございます。
一方、その公害のほうで申し上げれば、今考えれば本当にひどい状態であったわけでございます。私など、東北の国立公園のレンジャーをやっていて、たまに東京に出てきますと、1日、2日で、のどが痛くなった。周りの人に聞いてみますと、みんなそうだったようです。ですから、今考えてみても、本当にひどい大気汚染状態だった。水のほうだって、東京に隅田川という川がありますが、今はあの川の上を通っても臭いませんが、当時は電車であの川の上を通っただけでも、臭いがすごかったわけです。今考えれば、よくあんなところでみんな暮らしていたなというような感じであったわけです。ですから、もっぱら環境庁が発足したその当時、行政としては、そういったような、誰が見ても、これはひどいというものに対して、それを住民団体、それから各種団体の方々が一つずつそれを告発してきて、それを行政が一つずつ法の規制の中で叱っていった、法規制で、それを止めていったと、そういったような時代だったと思います。
その辺がだんだん変わってくるわけでございますが、その当時は、いろんな規制法、大気汚染防止法ですとか、水質汚濁防止法ですとか、自然の関係でいえば自然公園法ですとか、そういったような法律をしっかり守っていけば日本の環境は保全できるというようなことであったと思います。私どもも、そういうことからして、来る日も来る日も、そういう形で、やれ、あちらの違反行為だ、こちらの違反行為だという形で、そういうものを次々と潰していった時代であったわけでございます。
そのような時代が、環境庁発足から10年近く続いたと思います。それがだんだん様変わりしてきたのは、1970年代の終わりくらいからだったと思います。それから10年間ぐらいの時代、これは、今振り返ってみますと、環境問題が多様化した時代だというふうに、私は思っております。その前が、自然破壊、公害といった告発型であり、そして法律で規制していくという時代であったわけです。次の10年というのは、いろんな形の環境問題が取り上げられるようになった時代、環境問題の多様化の時代だったと思っております。
自然環境の面でいいますと、それまで、先ほど言いましたように、尾瀬ですとか富士山ですとか大雪山ですとか、日本の自然の中でも本当に誰が見ても貴重な自然、今でも国立公園の中心部になるような、そういったような自然の、そういう場所での自然破壊問題であったわけですが、この時代になってきますと、身近な自然ですとか、ふるさとの自然といったように、今まではなんとなく見過ごされてきた価値、空気と同じようなものでしょうか、存在が当たり前だと思って、その価値についてあまり認識されていなかった、そういったような自然が大切だと言われはじめた時代でございます。
私どもも環境庁におりまして、そういったような動きに合わせまして、国立公園みたいな法律で規制できるところはいいが、身の周りの本当になんでもない自然、そういうものが大切なんだけど、そういうものを一体どうやって護っていったらいいのかというようなことを、いろいろ勉強させられたときでございます。そのころに、私どもが勉強会の成果としてビートルズプランというのを発表したんです。それを今読み返してみますと、かなり当時としては先見の明があったかなと、ちょっと自負してるところがあるんです。なぜかというと、その中では、最近使われるようになりました、人と自然との共生というのが、そのリポートの中心テーマとして使われております。