それ以後、高度経済成長が終わった時代の暮らしを比較すると、本当にこんなに変わってしまったのかというようなことが、思い起こされます。高度経済成長時代というくらいですから、この時代に確かにわが国の経済は発展いたしました。そのおかげで、私たちサラリーマンの給料は、その前と後と比べれば、相当の開きがあります。所得も大きくなりました。車ももてるようになりました。あの時代の前、私は小学校、中学校にいたわけですけれども、まさかあの当時自分で車をもてる、そんな時代が来るというのは全く思いもしませんでした。私の家の周りでも、車をもってる人なんて、地域の中の資産家といわれるような人がもってるくらいで、まさか1世帯1台、場合によれば2台、3台と、こんな時代が来るとはとても思いもしませんでした。
食べ物だってそうだったと思います。思い返してみれば、多分何か食べるときは、両親などから、「絶対残すな。もったいない」という言葉をいっぱい云われたのを覚えております。僅かな食べ物を余すことなく、しっかり全部食べました。いろんな旅行の形態だって、思い出してみると、私たち旅行するのは修学旅行が精一杯という時代だったと思います。修学旅行と新婚旅行のときに旅行するぐらいで、あとはほとんどそういうものには縁がなかったと。それが、すぐに、団体旅行の時代が来たわけでございます。そして、さらには、今はもう団体旅行どころか、若い人たちまでもどんどん海外まで旅行する、そういったような時代でございます。まさに、ものすごく日本が変わった時代でございます。
しかし、この発展、その経済成長というのは、いろんなツケを残しております。その一番大きなものとしては、やはり公害問題、そして自然破壊、国土全体には過疎・過密というような問題を引き起こしております。本当はこういう目に見えるものよりも、実はわれわれ日本人が、もったいないという気持ちを失うとか、物質文明に毒されてしまったという、そういう心の問題のほうが大きいのかもしれませんが、これについては私はよく分析したわけではありませんので、多分そうだということで、ここではそういう話は、やめておきたいと思います。
その高度経済成長のツケがはっきりわかってきたというのが1970年代のことでございます。先ほど言いましたように、公害とか自然破壊というものに対して、各地で住民が、そういったような動きを告発するようになりました。国はまだ、あまり動きがよくなかったんですが、そういったような住民の方々、市民の方々のそういう告発に対して、まず自治体が反応したわけでございます。市町村、都道府県といったような自治体の反応がまずあって、そのうち日本全体が高度成長のツケをどうするんだというような大きな動きになってまいりました。
それが、環境庁が生まれるきっかけであったわけでございます。昭和46年、1971年の7月でございますが、そのときに環境庁が発足しております。私は、環境庁が発足したとき、十和田八幡平国立公園の国立公園管理官、パークレンジャーと呼んでおりますが、これをつとめておりました。八幡平地区担当ということで、当時山の中に暮らしておりまして、さすがにそこまではその環境庁発足の熱気というものが及んできませんでした。ですから、国立公園の現場にいまして、身分が厚生省技官から、今度は環境庁の技官、環境庁は総理府ですから、総理府技官ということに身分が変わったわけです。ただ「ああ、そうか」というだけでして、世の中のすごい動きを本当に肌で感じたのは、その後東京に戻ってからでございました。
発足後2年、昭和48年に、私はその八幡平のレンジャーから東京に、本庁に戻ったわけですが、そのときの環境庁全体、世の中全体そうだったんですが、その動きというのは、まさに環境庁発足当時の熱気をそのままもった動きでした。ただ、そのころの自然保護ですとか、公害ですとか、どういったような動き方をしたかと申しますと、ほとんどの場合、先ほど言いましたように、住民の方々、当時自然保護団体等々もたくさん生まれておりましたが、そういったような住民とか各種保護団体、そういったところの方々が、いろんなひどいことを告発していた時代で、それの持ち込む先が環境庁であったわけでございます。ですから、本庁に戻ってきましても、ほとんど毎日そういったような保護団体の方から、「あそこでおかしなことが行われてる。ちゃんと調べろ」というような突き上げのもと、しょっちゅう現場を見に行って、国立公園の中での違反行為だとか、設計通り工事が行われていないだとか、そんなようなことに翻弄されたときでございます。