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しかも、パブリック方式のゴルフ場というのが適切であって、会員方式の、とにかくお金持ちが集まるゴルフ場はやめようという判断をしてくださってた。ゴルフ場は解除、つくってもいいけれどもハードルは高いよというのでゴルフ場解除になりました。市民活動をやってる側は、これは正直うまくいったと思いました。開発ははっきり阻止されたわけじゃないけれども、これで次の転換ができると。

 その後、1989年から1995年にかけては、私たちはゴルフ場はもうないというふうに考えていましたので、どういう保全、あるいは活用があり得るかということで、保全に関連する日常活動を谷ですすめながら、行政が保全のビジョンをつくりやすいように、ああいう保全の仕方もあるだろう、こういう保全の仕方もあるだろうというような、いろんなアイデア、提案をし続けるという活動をいたしました。そのときの中心の活動になった一つが、さっきの自然観察会と、浜掃除です。それから、もう一つが、アカテガニのパトロールです。

 そしてさらにもう一つが、1990年の夏から始めたものですけれども、かながわトラストみどり財団の神奈川ナショナル・トラスト活動を支援する活動でした。

 これは、小網代の自然保護を推進したいと思ってる市民団体が独自のトラスト活動をやったのではありません。そうではなくて、県が基金で運営する形になってるかながわトラストみどり財団の、ナショナル・トラスト活動を、とにかく応援するという活動をやった。それを応援すると小網代の森が守れるという確約は何もありませんでしたし、保全のために必要なお金を考えると、その程度のことで保全されるという見通しはまったくなかったんですが、とにかく全県的なそのナショナル・トラスト運動を、ある意味では一方的に応援し続けるという形で、小網代の保全への世論を喚起する道を探るというような作戦を立てました。スタッフの人たちのとっても強い熱意もあって、また財団側のよいご対応もあって、これは、かなりうまくいったと思います。この間六、七年の間に、多分小網代のカニのパトロールだとか自然観察会だとかを中心にして、トラストの会員に参加した人は3000人、ぐらいまでは多分勘定してもらったかと思いますけれども、4000人とか5000人とかいう数字になっていたんではないかなあと思います。猛烈な勢いで会員を増やしました。中心は小網代がおもしろくて、カニがおもしろくて来てくださる方を、その場で会員にしてしまうという現場での勧誘方式でした。

 この第2期は1995年に区切ることができました。1995年の春に、当時神奈川県知事の長洲さんが、三浦の小網代に関しては谷全域を保全したいという趣旨の方針を出してくださったんです。思ってもいなかったような形ですけれども、中央の谷全域がとにかく県のレベルにおいて保全したいという対象になった。これに合わせて、実は市民活動のほうもにわかに活動の仕方をシフトさせました。このあと間もなく、県のほうが、財団を通して、市民団体と意見交換をするような場をつくってくださって、小網代の森の保全の方策について大枠を検討する会議をもってくださった。間接的ながら、パートナーシップが組めるようになったのです。

 さらに1997年、去年の春には神奈川県の環境基本計画と、地元三浦市のみどりの基本計画において、いずれも小網代の森は長期的に保全していくということが、学識者などと行政の意見交換の揚が財団の中にできました。そういう動きに合わせて、市民団体側は、全体保全に至るまで、あと5年なのか、10年なのか、15年なのか、20年なのか、実はまだ見通しが確定してないわけですけれども、財団なり行政と連携ができる、パートナーシップを組んでこちらの希望をしっかり通していける、そういう力のあるネットワークをつくるという方向ヘシフトしました。

 現在はその第3期、全体保全実現のための行政、財団の保全のための動きに、いわばパートナーとして対応していくというフェーズを背負っています。これ、なかなか大変で、言うほど簡単なことではないんですけれども、組織的な工夫はある程度しました。それがどううまく動かしていけるか、今本当に大変な時期です。そんな話をこれからさせていただきたいと思います。

 OHPのほうをちょっと使わせていただきます。現在小網代の森の保全・管理に関わる中心的な団体というか、アクターというか、は、この3者です。一つは自治体。三浦市、それから神奈川県です。もう一つは、かながわトラストみどり財団という、神奈川のナショナル・トラスト運動を推進している財団。それからもう一つは、

 

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