たまたまその非常に熱心な人たちが担当大臣のポストにいたんです。そしてまた、一般に、世の中の流れも地方分権を進めるべきであると。国から地方へ、官から民へということで、地方分権と規制緩和を進めるべきであると。そういう空気が非常に強かったわけです。そういう状況の中でこの法律ができ、私どもの委員会がつくられました。
委員会は7人で構成されておりまして、大学の先生がお2人。それから元の知事さん、前の知事さん、1人ずつです。それから現市長さんが1人。それから女性の評論家の方が1人。そして私とで構成されております。この7人で、これはもう国会承認人事でありますが、委員会を構成して、1995年の7月から仕事を始めました。ですから、2000年の7月に任期が終わるわけです。それまでに勧告を終え、勧告が終わったら、今度はそれがきちんと実施されているかどうか監視をして、問題があれば総理大臣に意見をまた申し上げる。総理大臣はその意見を尊重しなければならないことになっております。
その年の10月に24人の専門委員の方をお願いをして、地域づくり部会、暮らしづくり部会という2つの部会をつくりまして、それで鋭意合同で審議を重ねてまいりました。そして翌年の1996年3月に中間報告を出しました。普通中間報告というと、それまで各省庁といろいろやり合って、大体まとまったところを出すわけです。ところが、その時点で、実は全く何一つ各省庁とまとまったところはないわけであります。一方では、知事会とか市長会とか、そういう地方6団体からの意見の聴取をやりまして、そっちからはいろんな要望が出ている。そちらから出ている要望と、各省庁の返事等というのは、もう全く、右と左に分かれてしまって、何一つまとまっていない。そういう状態の中で中間報告を出したわけであります。
そこで、仕方がありませんので、その時点でわれわれが委員会としてどういう方向で勧告をまとめようと考えているかということを一方的に述べたわけです。これは一方では大変、評判がよかったんです。非常に文章もわかりやすいし、中身もしっかりしている、この線でやってくれと。その代わり、各省庁からはもう大変評判が悪くて、冗談じゃないと。こんな中間報告は見たことがないと。全然われわれが何も同意してないのを並べて、けしからんというので、各省庁は大変怒ったわけでありますが。
しかし、そうはいっても、結局各省庁とまた話をしてまとめていかなくちゃなりませんので、それからまた鋭意各省庁と折衝を続けていったわけです。大体第1次勧告というのを96年の12月に出し、第2次勧告が97年の7月に、第3次勧告が8月、第4次勧告を97年の10月9日に出しました。大体この四つの勧告で、推進法が求めておる項目全部について、地方6団体がいろいろ要求していること、それを各省庁と折衝をして、まとまった部分を全部勧告としてまとめあげて提出をしたわけであります。
その間、大体、少なくとも400回ぐらいの会合をやっているわけです。ちょっと勘定してみると、土日とか祭日とか、そういうのを除いて、営業日にして600日ぐらいの中で400日ぐらい会議をやってた勘定になるわけです。もちろん私は全部に出てるわけじゃないんですけれども、先生によってはもうそのほとんど全部に出てる人もいるわけです。だから、本業のほうがおろそかになって、おそらく休講に次ぐ休講ではなかったかと思うんですが。そういうような努力をし、各省庁と膝詰め談判をして、ようやく第4次勧告までまとめあげたわけであります。
それで、その中身として、一番の目玉は、機関委任事務制度の撤廃ということなんです。これは、どういうことかと申しますと、戦前は知事さんが内務省から任命されておったんです。ですから、中央が任命した知事が地方の行政を取り仕切っていたということであります。そういう形での中央集権だったんです。戦後、占領軍がやってきて、これはおかしいじゃないかというので、知事さんは選挙で選ばれることになった。そうすると中央のお役所は、これはえらいことになるぞと。知事さん、選挙だから、どんな人が出てくるかわからない。そうすると、今までのようにきちんと全国同じような行政をやることができなくなってしまうんじゃないか。どんな県が出てくるかわからないのでは大変だというので、今まで知事さんにやらせていた仕事の大部分を機関委任事務という形の仕事にしてしまった。
つまり知事を国のいわば下請け機関というふうにみなして、その下請け機関である知事に国が委任した事務という形をつくったわけです。