それが証拠に、日本は非常に目ざましい経済成長を遂げて、今から十数年前に、大体、いわゆる先進国に追いつくという目標を達成したわけであります。その間に、シビルミニマムという言葉がありますが、ナショナルミニマムとでもいうのでしょうか、国民の最低の生活水準というものも大体欧米並みのところへ来たということがいえるのではないかと思います。1人当たりの国民所得も、1988年でしたか、アメリカを越すところまできたわけです。そのくらいまでは順調に進んできたということがいえるのではないかと思います。
ただ、大体その水準までやってまいりますと、今度は逆に、全国を全部画一的にやっていくということがかえって非効率的になった、あるいは不公平になっていくということが起こってきました。やはりそれぞれの地域によって事情は非常に異なる。気候も違えば、あるいは人口構成だって違うわけです。そしてまた、過疎のところもあれば、過密なところもある。経済的に発展しているところもあれば、非常に疲弊しているところもある。いろんな地域があるわけです。それから、やはり自然の保護を非常に強く考えておられる地域もあれば、開発第一というような地域もあるというようなことであります。それを全部画一的に、どの地域も同じように考えていくというのは、かえって不公平である。あるいはその地域の住民が求めているものを与えないで済ましてしまうことになる。それでいて全部同じように平等に配ってしまうわけですから、要らないものをいっぱい配るようなことも起きて、非効率になる。ある程度そういう水準に到達したら、今度は徐々に、生活に関連すること、地域に関連することというのは、地方に任せていもつまり都道府県に任せ、さらに市町村に任せていくというのが、やはり地方行政の本筋だろうと思います。
地方分権というものの本当の意味はそういうところにあるのではないか。ですから、単に中央の省庁の持ってる権限とか財源とかというものを県庁や市役所に移すというだけではなくて、そこでその地域の住民の方たちの大多数が考えている、そこでの優先順位にしたがって、地域ごとの行政が行われるように変えていく。ある地域、Aの地域とBの地域で優先順位が違えば、その行政の中身が違ってくるというふうにもっていくのが、本来の地方の行政のあり方です。そのためには、やはり地方に権限が移っていかないとできないというのが、われわれの考え方であります。
しかし、そうはいっても、なかなかこれだけ牢固たる中央集権の体制が、少しオーバーにいえば、明治維新以来百何十年続いてるわけですから、そう簡単に変わってはいかないわけで、われわれが3年や5年やったからといって、そうがらりとは変わっていかないわけであります。私どもの委員会ができましたのが1995年でございます。95年の5月に、地方分権推進法という法律が国会で成立をしたわけです。これは今考えてみると、ものすごい法律をつくったものだなと思います。この中央集権の国で、国会が地方分権を進めるということを法律で決めたわけです。そして、しかも、どこを変えるんだということも具体的に決めているわけです。ちょっと耳慣れない言葉ばかりが出てくるわけですが、例えば機関委任事務の制度をどうするか。必置規制をどうするか。国の関与をどうするか。補助金をどうするか。財源をどうするか。地方の行政体制をどうするか。税制財源をどうするか。というようなことを、その法律の中にきちんと見直せということを書いてるわけです。
そして、その手順として、まず地方分権推進委員会というものを設立して、それがわれわれの委員会でありますが、その委員会が内閣総理大臣に対して勧告を出す。内閣総理大臣は、その勧告を最大限に尊重をし、その勧告に基づいて、地方分権推進計画をつくる。その計画を閣議決定して、各省庁はその計画に沿って法律制度の改正をやっていく。その期間は5年間。法律の期間が5年でありまして、われわれ委員会の任期も5年です。この5年の中で、そういう個々の法律の改正まで全部やってしまえということであります。これはとても大変なことで、よくああいう法律ができたなあと、今さらながら思うわけであります。
これは、あの当時総理大臣が村山さんだったんです。それから、自治大臣が今の官房長官の野中さん、総務庁長官が社民党の山口鶴男さんだったんです。それから、官房長官が五十嵐さんです。やはり社民党の。この4人は、それぞれ自治体の経験があったり、地方分権に対しては非常に熱心な人たちでした。