日本財団 図書館


32年にもう一遍これを手直しをして、それでまた提示したわけですが、また反対を受けて潰れてしまうというようなことでございました。

 一方、昭和29年に清掃法、それから33年に下水道法というものが制定されまして、ようやくこの辺から軌道に乗りはじめるわけですが、同じ33年に公共用水域の水質保全に関する法律、それからまた工場排水等の規制に関する法律、こういうものが出てまいります。この辺も、江戸川の本州製紙の工場排水に関する漁業被害で、乱闘事件などがありまして、そういうものが契機になって出てきた法律でございます。37年には建築用地下水の採取の規制に関する法律、煤煙の排出の規制に関する法律というものができてくる。42年になって、公害対策基本法が成立しました。43年大気汚染防止法、騒音規制法、45年に水質汚濁防止法というながれで、46年にようやく環境庁ができました。こういうようなことでございます。

 この経緯を見てもやはり、地方の自治体が先行し、そして中央では各省庁が縦割りでやっておるわけで、各省庁と関連する事項については、関連する省庁が全部賛成をしないと閣議決定にならず、法律にならないという、そういう形で今は内閣が運営されているものですから、結局なかなか中央では決められない。時間がかかるというようなことでございます。

 それから、この琵琶湖に関連がありますが、滋賀県の琵琶湖の富栄養化防止に関する条例、これは54年。茨城県の霞ケ浦でも同じような条例が出まして、そして57年に国の取り組みで、湖沼に係る全窒素および全リンの環境基準の設定というものができる。そして59年に中央公害対策審議会の答申が出て、60年に水質汚濁防止法施行令の一部改正が出てくるという流れです。

 それから自然環境保全でも、45年に北海道で自然保護条例が先行して決められましたが、これは都道府県では初めての自然保護条例でございます。そして、国はそれを追いかけて、46年に環境庁ができるわけですが、47年に自然環境保全法というものができました。そして48年に、自然環境保全基本方針の閣議決定。そして、自然環境保全の基礎調査を開始すると。こういうような段取りになっているわけです。

 ですから、われわれも地方分権をやっておりまして、環境庁といろいろ話してますと、どうも実は一番最初がこれは自治体のほうが先行したんだ。しかし、結局それを国が法律に取り上げて、それを今は国が法律で指揮・監督してるんだというふうなことで、それだったらもう都道府県に任せてしまえばいいじゃないかというふうな議論もいろいろしたわけでございます。しかし、やはり都道府県によって熱心なところもあれば、必ずしもそうでないようなところもある。非常に関心の深いところも必ずしも関心の深くないところもあるわけですから、先行する自治体があり、国がそれを取り上げ、そして国全体に広げていくという、今の段取りであるいはいいのかもしれないわけです。このような形で環境行政というようなものは進んできたような感じがしております。

 これでわかるように、生活に関連したこと、あるいは地域に関連したことというのは、本質的には地元で考える。地元でいろいろ問題が起こり、被害が起こり、議論が起こり、そしてその対策を考え、そこから施策がいろいろ出てくるというのが、やはり本筋だと思うのです。

 ところが、日本は、戦後といいますか、実は明治維新以来なのかもしれないのですけれども、中央集権でやってまいりまして、中央の各省庁が仕事の分担管理をしている。そして、全国にわたってそれぞれ分担管理している仕事についての政策なり方針なりというものを決めていく。各分野にまたがるような問題は、関連する省庁が調整をして、調整のできたものが結論付けられて決まっていく。そして法律になり、国会で決定をされる。そういう手順で行政をしてきたわけです。中央集権ですが、単なる中央集権ではなくて、行政主導、省庁主導の中央集権という形でやってきたわけであります。

 これは、戦後戦災ですっかり荒れ果てて、経済的にも完全に疲弊した、その態勢から立ち上がって、先進国に追いつき、追い越せと。先進国のような生活水準に早く到達したいという全国民の一致した希望があって、それへ向かって―直線に進んでいた。その時代には、あるいはかえってよかったのかもしれないんですね。国の資源というものを中央で一手に管理をして、それを効率的に配分をしていく、あるいは公平に配分をしていく、あるいは広域的に配分をしていくというやり方があるいは正しかったのではないかと思うんです。

 

前ページ    目次へ    次ページ






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION