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 ですから私は、環境対策の原点とも言うべき日本の国民の環境観はどのように変化してきたかということを常々考えております。私どもが最初に環境問題について目を開かれたのは、やはり1960年代の半ば頃からの水俣病とか四日市喘息とか、4大公害裁判か起こったあの頃からであります。当時は環境問題と言えばイコール公害だというふうに考えておりました。まず目の前の公害を何としても解決しようということであります。そういう公害問題と住民が、また自治体が、そして国が取り組むことによって、国民の環境観は急速に研ぎ澄まされてきました。

 そういう研ぎ澄まされた目で改めて見直してみると、自然の破壊がひどいということに気づきました。北から申しますと、例えば当時北海道の真ん中にある大雪山の縦貫道路に対する反対運動、さらに長野県ではビーナスラインを、コースを変えさせようとか、あるいは南アルプススーパー林道がめちゃくちゃなスピードで造られておりましたが、こういうものに反対するとか。そういう運動が起こってきたのも、公害から自然破壊へと国民の環境観が広がってきたことを示すものだと思います。

 そして第3の段階として1970年代の半ば頃から、その地域の歴史的あるいは文化的環境の重要性ということに人々は気づいてまいりました。各地で伝統的な町並みを守ろうとか、あるいはそういうものを保護し、再生していこう、よみがえらせていこうという動きが出てまいりました。それまでは古い家はもう使いにくいと、だから簡単に取り壊して新しいものに建てようと。都市の中心部でもそういう形で歴史的な建物がどんどん壊されていったわけです。

 そういう中で先覚者といいますか、そういうものに早くから気づいた人がいます。例えば長野県の中山道の妻籠の宿場町を守る運動とか、倉敷とか京都の町並み保存運動とか、各地下こういう地域の文化環境の重要さに人々か気づいてきた。そういう運動がきっかけになりまして1975年に文化財保護法が改正されて、伝統的な町並みを国が選定して、それを保護しようという動きになりました。これは今日まで急速に展開されまして、既に50に上る町並みが国の文化財に選定されております。「指定」と言わないで「選定」という言葉を使いますのは、国宝とか重要文化財の社寺仏閣などは、これは国が上から指定するわけですが、伝統的町並みはそうではなくて、そこに住民が住んでいますから、住民が自分たちのこの町並みは守るべきものだということを自覚して、自治体が条例を作り、その条例を作った地域を国が選んでいくと、選定していくと、そして補助をしていくという形であります。

 このように、この30年間の間に日本国民の環境観はずいふん広がってまいりました。公害が人間の肉体に対する破壊行為であるとすれば、その地域の文化あるいは歴史的環境の破壊というものは、そこに住む人々の精抻生活に対する破壊行為であると。つまりこの公害という現状をみつめる横軸の視線と、歴史をつなぐ縦軸の視線、空間軸と時間軸の双方から環境をトータルにとらえるようになりました。そして最近では先ほどもお話のありました地球的規模の環境、こういうものへますます人々の環境観は拡大してきたわけであります。

 先ほども私は住民、自治体、国という形で展開されてきたと申しましたが、これは明治以来のわが国の行政の歴史の上では、やはり注目すべきことではないかと思います。明治以来、富国強兵、殖産興業、日本の近代化を目指してまず国が法律を作って、それを実施するために自治体に条例を作らせ、自治体は国からの機関委任の事務などを引き受けた上で、住民にその遵守を迫る。国、自治体、住民というトップダウンで来た行政が、この環境問題を契機に住民、自治体、国という形でボトムアップといいますか、草の根の住民から自治体、国と攻めあげて行くという形で展開されるようになりました。最近地方分権の問題か非常に注目されておりますが、やはりそのきっかけを作ったのは環境問題ではなかったかと思います。明日はまた地方分権推進委員会会長の諸井虔先生のお話がありますが、そういう時代的背景の中でやはり環境問題の果たした役割というのは大きいと思っております。

 そういう住民の環境観が広がったところで、このナショナル・トラストについての関心も高まってまいりました。私が初めてナショナル・トラストについて知ったのは、1965年、昭和40年です。束京オリンピックの翌年でありますが、当時、鎌倉の鶴岡八幡宮の裏山に、宅地造成をしようというとんでもない計画が起こりました。今から見ればとんでもないことですが、

 

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