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猫は私に損害賠償をする権利がないんです。法律という制度が守ることのできるものは、ともかく人という類に一括されて、人のものです。その「もの」というのも、名誉も著作権も、生命も財産もありますが、ともかく人のものという形をとっているわけです。もしアマミノクロウサギを誰も所有していないとするならば、誰のものでもないアマミノクロウサギは、誰からも守ってもらえないというふうな構図で、私たちの法律が作られています。誰かのものであれば持ち主が文句を言うという形で保護されるけれども持ち主が「いらない」と言えば、つぶされてしまう。

 誰のものでもない生物を誰が守るかといえば、私たちの法律は欠点があったので、誰のものでもない生物もまた、法律で守られるように考え直さなければいけないでしょう。あらゆる生物を種の絶滅から守らなければいけない。

 我々がある生物を有害だとか有益だとか無害だとか実に小さな視点、狭い尺度で言っているのであって、その生物それ自身の持っている可能性は、その有害とか無害とかという一面に決して尽きてしまうことがないわけです。

 沖縄でハブに噛まれる人がいて、一生涯取り返しのつかないような、片腕切断というようなことがあります。ですから、人間の生活圏からハブを追放することに私は異議を唱えるわけではありません。しかしハブを1匹残らず全部絶滅させることは必要もないし、またそんなことをしないでもちゃんとハブを保存することはできます。ハブと人類との共生は可能です。

 私の話の全体をまとめるとこうなります。地球が有限だという原則が、今までの我々の経済社会の原則の中に含まれていなかった。有限なんだからただで石炭を掘っても本当の意味ではただではないし、有限なんだからただで大気圏に炭酸ガスを捨ててもただですまされるはずがないと考え直さなくてはならない。地球全体が公共財産です。だからその使用料を払わなけりゃ何もできないと経済の原則を作り替える必要がある。これが第1点ですね。

 2番目は、同世代間の同意があればその同意が有効だという政治的な意思決定の方式が間違っているんです。未来世代からも承諾をとってくることを考えなきゃいけないんです。未来の人が黙っているからとやたらに国債を発行したり、今まで日本人が貯めた貯金を全部使い果たしたり、1000年先まで危険な廃棄物を残すということには、絶対に未来の人は納得しないと思います。ですから未来の人にも投票権を与えるという考え方ですね。それが2番目の世代間倫理です。

 3番目には、「〜のものを守る」と言った場合に誰のものでもない生物の命もその守るべきものに含めなきゃならない。

 この3点が我々の今までの社会、経済、政治、全部のシステムがそんな前提の中に間違いがあったということを露ほども知らなかったような、そういう間違いでした。我々の社会の合意は全て同世代間の同意で十分である。過去の世代の遺言、おじいちゃんが書き遺したからとか徳川家康がこう書いたからとか、そういったことは黙っていてもいいとか、未来の人にいちいちお伺いをたてる必要はないとか。そんなことを意識的に考えてやったわけではありません。少しずつ積み重ねていって、近代社会ができあがった時には、合意の同時性という構造、あるいは法によって守られる権利の人間にとっての物権という考え方。そして無限にあるものは、経済上の財産としてはカウントしないという経済体制、そういう考え方が確立されていた。

 今我々はNGO組織を作って、人間のものではない、自然の生命を守る。そこには、国境を越えた合意構造があり、既に国家をはみ出した形になっています。自然や文化財を買い取って使おうというんじゃなくて、それを国民の財産として永続的に未来の世代に遺していくという考え方です。ですからナショナル・トラストの考え方の中にもNGOの考え方の中にも、もう知らず知らずのうちに環境倫理学の考え方が入っていっていると思います。政府間パネルで考えている炭酸ガスの規制の考え方だとか、大型タンカーが事故を起こした場合の保証責任の考え方の中に、環境倫理学の考え方が採用されているわけです。

 21世紀の文化を考える時に、単にそうしたものを何となくみんなが暖昧に了解しているというよりは、今までの原則はここが間違っていた、これをはっきり変えなければおかしい、という形で多くの人々が理解することが必要でしょう。そうでないと、いつまでたっても未来人を犠牲にして現在の人々が繁栄を誇るという富の追求が当然であるかのようにまかり通ってしまいます。

 

 

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