人間の場合、インド人のアマトリア・センという経済学者がベンガル地方における何百万人、確か300万人だったと思いますけれども、大量飢餓が発生した時に、インドに穀物不足があったかどうかを調査しました。多少、不足はしていたけれども、餓死者は一人も出ないですむだけの穀物があったにもかかわらず、ベンガル地方では300万人の人が餓死した。穀物不足が起こるぞという情報が伝わった。お金持ちの人たちは穀物を買い占めて絶対売らないという姿勢をとった。そこで穀物価格が非常に高くなって、貧しい人々は穀物が買えなくなって死んだという。それがアマトリア・センの解釈です。
これについては異論もあります。本当は水不足が起こって伝染病も起こったとか、医薬品も絡んでいるとか、その分析それ自体については別の見方もあります。しかし穀物は人数分だけあったからといって餓死者が出ないとは言えないということが問題です。私のやっている環境倫理学も、倫理構造を問題にします。お説教臭くて、斎戒沐浴して、朝から孔子の本を読むというのが倫理だと思っている人もいます。私の言っている倫理は、法律も経済も個人の道徳も全部含めて、私たちの社会がどういうルールで生きているか、まかなっているかというルールの全体を倫理と呼んでいます。
倫理という面から地球全体を見ると、いろいろな問題が山積みして起こっているという状況です。20世紀の前半では、貧富の格差が限りなく拡大するから社会主義という新しい体制を作れば解決がつくというのが世界の難問だったわけです。ところが1980年代にゴルバチョフさんが共産主義が行き詰まったことを自分で認めて、貧富の格差を縮める方向で資本主義的な解決がつきそうだと言った頃にはもうソ連でも環境問題の処理ができないという事情が明らかになっています。
東大の安井 至先生の本では、環境問題は全部で9つ指摘してありました。私は4つに分けて考えております。第1に、廃棄物の累積。第2に生態系の不可逆的な劣化。毎年毎年日本で言うと山梨県の面積ぐらいが砂漠化しているという話も聞かれますし、最近では環境ホルモンが大きな問題になっております。日本で出た廃棄物が北極のクマの中でも発見されていると言われております。北極や南極の水を調べて、どこから出た廃棄物かということが厳密に計算できないまでも、ともかく廃棄物が地球全体を回っているらしいということが確認されております。第3に、生物が絶滅していく。生物種が減少していく。第4に資源の枯渇。廃棄物の累積、生態系の不可逆的な劣化、生物種の絶滅、資源の枯渇という4つを挙げることができると思うんです。
70年代では資源の枯渇というのが大問題だという話が多かったんですが、ローマクラブの報告を見ても、資源の枯渇よりも先に廃棄物の累積の方が工業文化の行き詰まりを示すだろうと書いてあるようです。最近では多くの環境学者が廃棄物の累積が一番人間が最初に直面する問題であろうと予測しています。今ある石油を全部燃やしてしまう前に、廃棄物で環境がだめになるから、石油がどれだけ残っているかという問題よりも廃棄物がどれだけたまっているかという問題の方が先に解決しなければならないのです。
困るのはスケールが大きいことです。個人個人が、たばこをやめたとか、自動車はやめたとか、やってもやってもきりがないぐらい大きなスケールの問題です。地球全体の問題について人間がそれをコントロールしなけりゃならないという時代が来たようです。
人間一人でも自分のことをコントロールするのが難しいのに、地球全体の問題について冷静にコントロールすることはとてもできない。自由主義社会は、人間は自分自身しかコントロールできないものだからみんな勝手にやれという始末です。その代わりだめなやつはだめになっていくんだから、全体としてはそれでうまくいくというのが自由主義社会です。一人ひとりは自由放任だけども全体としては大体うまくいくというのが自由主義です。ところが今は全体としてもうまくいかなくなっています。
私たちの社会のここまで来たら自然に戻る揺り戻し機構が倫理です。泥棒をする人がたくさん増えれば社会福祉の政策をとると同時に警察官の数を増やすとか、ここまで来たら元へ戻すという揺り戻しの仕組みがちゃんと働いていることが、社会生活が秩序だって成り立っているということです。地球全体での揺り戻し機構が壊れていたと考えないと、環境問題という巨大な問題の発生は説明がつかない。